街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

年度末の儀式。上司と後輩のやりとり

年度末がやってきた。 コロナに翻弄された今年度はまともに仕事をした感覚があまりない のだが、確実に時は過ぎていて、この会社で一年間やってきた( と思われる)仕事は、 評価や査定という形でスタッフに跳ね返ってくる。 どんな状況下であっても、この「儀式」は変わらず執り行われる。

 

幸か不幸か私はこの儀式の反対側、 つまり誰かを評価したり査定したりする会社側の立場に立ったこと がない。無理くりであろうがエビデンスを示し、人に優劣をつけ、 次年度へ向けてアドバイスを施す。 それを自分が管理するすべての部下に行うなんて、 考えるだけでゾッとする。30年もこんな儀式に参加して、 そのカラクリとか、組織の事情なんてものを分かってしまうと、 もう自分への値踏みに対して一喜一憂することはなくなってしまっ た。しかし、私のように「儀式慣れ」していなくて、 しかも評価の良くなかったスタッフは、真剣に悩んだり、 落ち込んだりするものだ。

 

私はスタッフを評価する会社側の立場にはないが、 会社から評価を受けたスタッフに相談される立場にはある。 先日も査定面談を終えたばかりの後輩スタッフから電話があった。 会社が下した自分への評価に納得がいかない後輩は、 興奮気味に上司との面談の様子を教えてくれる。こういう評価で、 こんなことを言われました、どう思いますか? 後輩の話はほとんどが想定内だったので、私の経験値で、 後輩のプライドを損なうことなく、対処することができたが、 考えさせられたのは上司が彼に言った「こだわらないで仕事して」 という一言だった。

 

マネジメントの立場からすれば、「効率よく仕事して」 ということなのだろうが、制作者として、 表現にこだわりながら仕事に取り組んできた後輩にしてみれば、 こだわらない=手を抜くとか、テキトーに、 という風に聞こえたのかもしれない。もっともな話だ。 私が上司だったら「効率よくこだわって仕事をして」 と言うだろう。そもそもこの上司はなぜ「効率よく」を「 こだわらないで」にコトバを変換したのだろうか。 残業時間を減らしてほしいなら、そう言えばいい、 担当業務の件数を増やしてほしいなら、そう言えばいい。 上司としては、後輩にプレッシャーをかけないように、 こういう直接的な言い方を敢えて避けたのかもしれない。 だとしたら相当ズレていると思う。「効率」と「こだわり」 は一見、真逆な概念にも思えるが、 この2つは両立できることを私は知っている。裏を返せば、 時間をかけさえすれば、いい仕事ができるわけではない、 ということだ。だからこそ「こだわらないで」 なんてコトバはぜったいに使わない。「効率」と「こだわり」 は別物なのだから。

 

こんなことを電話口で考えること約1秒。 私は後輩にその上司のコトバがいかにナンセンスであるかを説明し た。迂闊で、鈍感で、無神経。あまりにもお粗末な儀式である。

 

名刺の肩書を奪われるということについて

会社の組織が変更になって大きく変わったことが3つある。オフィスビルが移転になったこと、フリーデスクになったこと、そしてもう一つは職制を示す肩書がなくなったことである。私たちには「課長」や「部長」など会社の役職を示す肩書と「デザイナー」や「〇〇ディレクター」や「〇〇プランナー」などの専門職制を示す肩書があった。名刺上にその肩書を記す場合にどちらを選択してもよかったのだが、元の組織のすべてのスタッフは職制を示す肩書を冠していた。当たりまえのことだが、職制を示す肩書は対外的に非常に大切な要素である。特に初めて仕事をする相手に自分を理解してもらったり、その後の業務を円滑にすすめることができる。自分の素性をソッコーで相手に知らしめることができる。近年、得体のしれない肩書は増えてきているにせよ、それ自体が話題になることもある。職制の肩書はコミュニケーションの入り口としてとても有効に機能するのだ。一方、会社の役職を示す肩書は、正直・・・どうでもいい。少なくても私がその名刺をもらう立場だったらそう思う。「私は課長の〇〇です」って、お前がお前の会社で課長だろうが、役員だろうが知ったことではない。お前は、この仕事で何をする人なのかが知りたいんだよ。となる。このバカな会社は、こんなコミュニケーションのカオスを生もうとしている。私たち現場のスタッフになんの説明もなく、名刺に職制の肩書を記載することを廃止してしまった。おおよその理由は察しがつく。新しい組織には専門職制を名乗ることのできないスタッフ、つまり専門スキルを有しないスタッフが半数以上もいる。そういったスタッフへの配慮、バランスを考慮してのことだろう。半沢直樹的に解釈すると“組織内融和”といったところか。まったくもってアホな話だ。この会社の決定が及ぼす弊害は、対外的なコミュニケーションのカオスの他にもう一つある。それは、若いスタッフのモチベーションの喪失である。若いスタッフの中には、専門職に憧れ、そこを目指し、それを名乗れるように研鑽を積んできた人種が少なからずいる。私の若い頃もそうだった。案の定、若いスタッフの何人かが愚痴をこぼしてきた。そうだよね、わかるよ、その気持ち。そんなスタッフたちには肩書が消えたのは名刺上だけのことだから、今まで通り専門職の矜持をもって、業務に取り組むようアドバイスしている。なんならオリジナルの名刺、つくっちゃってもいいしさ。とかも言ったりする。ただでさえダサい名刺に「主任」とか「課長」とか記載されて、それを配る恥ずかしさもある。とにかくいろいろとイタいんだよ。そういうことだよ。気づけよ、会社の偉いヒトたちさ。

名刺の断捨離

会社の引越と新しい職場環境がフリーアドレス化されることが決まったのは、今年の春先、3月のことだった。引越はともかく、私が困ったのはフリーアドレス化の方である。自分のデスクがなくなる。あらゆるものが電子化、データ化されようとも、私のようなアナログな人間にとっては「現物」の方が絶対的に扱いやすいし、信用できる。私のデスクは紙の書類や雑誌や小説、写真集などの書籍、名刺の保管場所でもあった。引越の7月までに、それらアナログの現物たちをどうにかする必要があったのだ。ちなみに新しい職場には個人ロッカーは用意されていたが、すべての現物たちを収納するにはあまりにも小さすぎる。必然的に現物の断捨離を余儀なくされる。私の場合、それらの現物は資料というよりもメモリーとしての感覚が強い。なくても業務に支障をきたすことはまずないのだが、それらにはその時々の仕事の思い出がつまっている。徹夜して書き上げた企画書や、頭を抱えながら読み込んだオリエンシート、アイデアソースになった書籍たちは、どれも思い出深い。なんて感傷に浸っていてもしょうがないので、心を鬼にして処分することにした。コロナの影響で在宅勤務が基本になっていることもあり、出社が認められた時間は一人半日であった。つまり半日で引越の準備を完了しなければならなかった。書籍は半分ほどを処分し、残りを自宅に送ることにした。書類は結局ほとんど捨てた。最後に残ったのは、デスクの袖机に無造作に保管されている名刺である。ちなみに名刺管理ソフトやクラウドサービスを活用するという選択肢はまったくない。名刺はファイリングされているものが4冊と、50~60枚を輪ゴムで束にしたものが20個くらいあった。いつの頃からかぞんざいに扱っている。合計1,200枚~1,300枚はあるだろう。サラリーマン生活30年、この数が多いのか少ないのかは判断がつかないけれど、確かに言えるのは私のサラリーマン人生の歴史の一部ではある。中には接待で行った酒場の名刺やキャバ嬢の名刺もある。私はその一枚ずつ(一人ずつ)に目を通し、残すか処分するかの仕分けをするわけだが、処分する名刺にはいくつかの条件をつけた。1つ目はまったく覚えていない人。もはや縁が切れたと言っていいだろう。今後つながることはない。2つ目に単純に気に入らない人。覚えてはいるが印象が良くない。思い出したくもないという人。3つ目は今でも懇意にしている人。名刺なんてなくてもいつでも連絡がとれるし、不定期であってもブレーンとしていっしょに仕事をしている。仕分け作業は思いの外はかどった。はじめてしまえば思い出もクソもなく、処分することにまったく躊躇はなかった。上記の条件に従ってバッサバッサと切り捨てた。仕分け作業に要した時間は1時間たらず。そうして、最終的に手元に残した名刺は58枚だった。この58枚ですら、たいした意味はない。そんなものである。2つ目の条件はあるにせよ、58枚しか残らなかった。30年間で通り過ぎていった人びと。ビジネスを介してたまたま一瞬を共有してきた人びと、今、そんな人びとに感じるものは何もない。私の人生に大切な人びとは名刺のなかにはいないと確認した作業だった。大量の名刺が、セキュリティボックスの中に吸い込まれていった。

ペットのネーミングセンス

最近、動物病院に行く機会が増えた。娘(キャバリア・キングチャールズ・スパニエル12歳)が歳をとるにつれて、やたらと病気がちになったことで、週に一度の通院を余儀なくされている。娘の通う動物病院は毎回混んでいて、予約をしても30分や1時間待ちはざらである。受付を済ませ、待合室で診察の順番を待つ。待合室は、どこかを病んだ動物たちと献身的な飼い主たちでいつも溢れている。診察の順番が巡ってくると看護師に名前を呼ばれて診察室へ通されるのだが、呼ばれるのは動物たちの名前である、しかも飼い主の苗字を伴ったフルネームを大声で呼ばれるのだ。私はこの瞬間が好きだ。ペットにつけられる名前は飼い主のセンスの塊だと思う。そして飼い主たちの愛が込められている。それ自体は人間の子供に対する行為と同じであるが、対象が動物であるが故に多少奇抜な名前になることが間々ある。私は飼い主たちのペットへの愛情と背景を想像し、その一風変わった名前に遭遇することを楽しみにしている。今やペットのネーミングに「ポチ」「たま」のような古典型や、「シロ」「クロ」「ミケ」といったペットの色や模様から成る単純ルックス型は、皆無といっていいだろう。一方「モカ」や「クリーム」のようにネオ・ルックス型、さらには、「小麦」「あんこ」「きなこ」などの和風ルックス型の台頭が目立つようになった。そんな風に、ネーミングのトレンドを分類分けしたりするのもまた面白い。その日も私と娘は動物病院の待合室のソファで、診察の順番を静かに待っていた。待合室には私たちを含めて7,8組の飼い主とペットがいただろうか。その中で、目に留まったのは品の良さそうな老夫婦と、老夫婦がそれぞれに抱きかかえていた老犬の兄弟と思しき二匹のヨークシャテリアであった。老夫婦は時折、愛犬に優しい笑顔を向けて、何やら話しかけていた。それに応えるように愛犬がしっぽを振っている。実に微笑ましい光景だった。愛情と忠実のうえに成り立った飼い主とペットの姿がそこにはあった。長いあいだ、老犬たちがどれほど大切にされ、どれほどの愛情で応えてきたかがよくわかる。ここに来る飼い主とペットのほとんどがそうだと思うのだが、年期の入り方が違う。私はしばらくその微笑ましい光景に見入っていた。やがて看護師の声が待合室に響いた。「田中お兄ちゃん、田中お姉ちゃん、どうぞ」老夫婦は「はい」と返事をすると、愛犬たちとともに診察室へと消えていった。オスだからお兄ちゃん、メスだからお姉ちゃん・・・。私は思わずにやけてしまった。なんてソリッドなネーミングなんだろう。無駄な装飾や曖昧さをまるで感じさせない、実にいいネーミングだと思った。まず間違えようがないし、他人にすぐに覚えてもらえる。機能だけではなく、周囲の人々への配慮すら備えている。三兄弟の長男として育った私も親に「お兄ちゃん」と呼ばれて育ったから親近感も湧く。そして何より平等であることがいい。飼い主として二匹の犬を分け隔てなく愛そうとする心意気を感じる。そんな風にひとしきり感心していると、次のペットの名前が看護師に呼ばれた。「小林おじゃる丸くん、どうぞ」。おじゃる丸・・・。うん、これはこれで決して忘れられない、いいネーミングなんだと思う。わからんけど。

ときどき、想うひと(三)鈴木くん  

お前らもっと真面目にやれや!高校3年の夏、 体育館に怒声が響く。 男子バレーボール部キャプテンの鈴木くんの声だ。 最後の夏の大会を控えた練習中、 私のようにチンタラと気の抜けたプレーをしているチームメイトに 対し容赦なくハッパをかけてくる。 もともと強いチームではなかった。 地区の一部と二部を行ったり来たりしているようなチームであり、 部員一人ひとりの士気もそれほど高くない。そんななか、 鈴木くんは一人気を吐いていた。そして激しく浮いていた。 あの頃、何事もまじめにやるより、 多少ちゃらんぽらんな方がかっこいい、 なんて錯覚していたバカがチームメイトに何人もいたものだから、 キャプテンの苦労もかなりのものだっただろう。 私もバカの中心人物として鈴木くんにはたいへん迷惑をかけていた 。鈴木くんは、とてもまじめな人だった。成績もよく、 普段の生活態度も、部活に打ち込む姿もまじめだった。 私のようなバカの存在にもめげずに、 弱小チームのキャプテンを全うした。 新人戦で二部に落ちたチームは、 最後の大会で見事に一部に返り咲いた。鈴木くんのおかげである。 (と、いまは思える)入れ替え戦に勝ったとき、 鈴木くんだけが号泣している姿をいまでも鮮明に覚えている。 高校を卒業して、 鈴木くんは東京の大学に進学し体育会で活躍しているというウワサ は聞いたことがあったが、それきりであって、 連絡をとることもなかった。鈴木くんとの再会は、それから30年 も経ったお盆休みに開催された学年の同窓会だった。 地元の旅館の宴会の席で、鈴木くんが話しかけてきてくれた。「 お前の扱いにはほんと苦労したよ」。 当時の部活の思い出を一通り振り返ると、 話題はお互いの知らない、それぞれの半生について自然と及んだ。 鈴木くんは最近バツイチとなり、 いまは内縁のヒトと地元でひっそり農家暮らしをおくっていると言 う。前妻との離婚はその内縁との不倫が原因で、 刃傷沙汰一歩手前のかなりの修羅場だったらしい。 田舎でこういうゴシップを起こすと、 とんでもなく生きづらくなる。 どこに行っても好奇の目に晒されて、 近所づきあいができなくなる。それでも田舎にとどまるのは、 先祖代々守ってきたが農地があるからだと鈴木くんは言った。 そのとき私は、不倫はともかく、やっぱりまじめな奴だな、 と思ったものだが、いま思うとこれは鈴木くんの嘘だと思う。50 に近いおっさんが新しい土地で、新しい職を見つけて、 新しい暮らしをはじめることが、 どれほど大変なことかは容易に見当がつく。つまり鈴木くんは、 孤立をしながらも、 いまの居心地の悪い土地で生きていくしかなかったのだ。 鈴木くんがどうしてそれを美談にすり替えたのかは分からない。 自分のしたことに、少しでも意味を求めたのかもしれない。 高校当時のバカな部員に対して、 まじめな印象を貫きたかったのかもしれない。 ほどよく酒がまわったころ、鈴木くんがふとつぶやいた。「おれ、 もうつかれたよ・・・」。これは心の底から出た本音だと思う・・ ・。鈴木くんの訃報が届いたのは同窓会から2年後のことである。 胃がんだった。同窓会のときにはすでに発病していたらしい。 結局のところ、鈴木くんがまじめな人間だったのか、 そうじゃなかったのかは知る由もない。そもそもまじめって、 なんだっけ。ひとつだけ言えるのは、 彼をまじめだと決めつけていたのは、未熟が故の私の幻想で、 鈴木くんはとても弱くて、脆くて、ある意味人間くさい男だった。 あの同窓会の夜、確かにそう感じた。 そういう見立てができるようになったのは、 歳のせいかもしれない。鈴木くん、 お盆の時期になると想うひとである。

ときどき、想うひと (二) 矢吹さん

実質2浪を経て大学入学を果たした私がまず取り組んだのは、食い扶持を確保することだった。親からの仕送りが期待できなかった私は、日々の生計はもちろんだが、入学金のために拵えた借金返済のために、アルバイト探しに奔走することになった。そして見つけたのが配膳業だった。一流ホテルのレストランや結婚披露宴におけるウェイターや給仕係である。高額な収入はアルバイトの域を超えていたが、仕事の厳しさもまたアルバイトの域をはるかに超えるものだった。お客さまを相手にする業務に失敗は許されず、プロの給仕係として必要なマインドとスキルを徹底的に叩き込まれた。矢吹さんは私が配属されたホテルのレストランで、私の教育係を買って出てくれた人物である。私の一回りほど年上の矢吹さんは、仕事においては、めちゃくちゃ厳しい人だった。ホールで失敗するとすぐにバックヤードに呼び出され、殴られることはなかったが、こっぴどく説教を受けよく泣かされた。自分の不甲斐なさと、置かれた境遇を思うと悔しくて、年甲斐もなく本当に泣いていた。そんな日々の連続だった。そのうち矢吹さんは、私を食事や遊びに誘ってくれるようになった。仕事明けに、休日に、事あるごとに声をかけてくれて、いろんな場所に連れて行ってくれた。時代はバブルの全盛期だ。マラハジャ、キング&クイーン、Mカルロ・・・。田舎者の青年には眩しすぎて失神するくらいのところへも連れていってもらった。いつでも支払いは矢吹さんが持ってくれて、私には一円たりとも払わせることはしなかった。私はいつも矢吹さんに甘えて奢られていたわけだが、さすがに若干の後ろめたさを感じていた。そんなある日、いつものように食事に誘われた私は、矢吹さんにこう切り出した「今日は給料日だし、ぼく払いますね」。すると矢吹さんは「そんなこと気にする必要はないよ」とあっけらかんと言い放った。「いつかお前に後輩や部下ができたとき、同じことをしてやればいい、そうやって世の中はまわっていくんだよ」と・・・。時代は移り“ワリカン”という概念が合理的且つ妥当的に蔓延する世の中になった。身内の上下関係であっても、昔のような付き合い方は稀になった。そう、価値観は変わる。デートで女の子とのワリカンがまかりとおる世の中なのだ・・・。そのことを嘆いても仕方がないと思う。それでも私は、後輩や部下を連れて食事に行くとき、矢吹さんと矢吹さんのコトバを思い出す。そして実行している。もちろん、同じコトバを添えながら・・・。ただ、奢られることが当たり前のように振舞われると、イラっとしてしまう。我ながら、勝手なものである。

ときどき、想うひと (一)豊川さん

大学の現役受験に失敗した私は、 半ば絶望しながら途方に暮れていた。 母子家庭の我が家に予備校に通えるほどの余裕はなく、 かといって独学で一年間の浪人生活を送る自信もなかった。 そんな私が選択したのは地元を離れて就職するということだった。 当時の私は、予備校にも通えず、 進学を諦める自分が負け犬のような気がしていたので、 とりあえず、 自分を知る人のいない土地へ逃げたかったのだと思う。 そして地元の職安に通い、5月に入って間もなく神奈川の平塚にあ る運送会社に事務職を見つけ、就職を決めたのだった。 世の中の同い年の多くが夢と希望に満ちた新生活を始めようとして いるとき、私は運送会社の独身寮に、 野良猫のような悲壮感をまといながら転がり込むことになったのだ 。会社の独身寮の住人のほとんどはトラックの運転手で、20代か ら50代と年齢層こそバラバラなものの、 みんな昔はやんちゃしてたと思わせるような人々だった。私は「 豊川さん」という40代半ばの青森は八戸出身の人と相部屋になっ た。豊川さんは中学を卒業するとすぐに上京し、 職を転々としながらこの運送会社に流れ着いたそうで、 トラック運転手が全国から運んできた貨物や荷物の仕分けをする作 業員だった。人の良い、気さくな人だったが、 少し発達障害のようなところがあって、 独身寮の一部の住人から悪質ないじられ方をすることがあった。 そんなとき豊川さんはいつも抵抗するわけでもなく「 しょうがねぇなぁ」と強がりを見せて その場をやり過ごしていた。同じ東北出身ということもあり、 豊川さんは私の面倒をよくみてくれた。 おかげで仕事や寮生活に早く慣れることができたし、入社から3カ 月もする頃には当初の悲壮感も影を潜め「 こんな暮らしも悪くないな」と、 居心地の良さすら感じるようになっていた。 とある休日の昼下がり、豊川さんがパーマをかけてきた。 前髪をつくり、 緩やかにサイドウェーブさせ、赤茶色に染められたそれは、 昭和の不良アイドル沖田浩之を彷彿とさせた。「 まったく似合わねぇ」。私は明らかに失敗だと思ったが、 おばさんパーマを見事に再現しているという点では成功と言えるか もしれない。豊川さんは箔をつけたかったのだ。 おばさんパーマは、 日頃いじられていることへの小さな反抗だということは 容易に想像できた。 おばさんパーマという新しい武器を手に入れた豊川さんは満足そう だったが、すぐに悲劇を生むことなる。その日の夜、 寮の廊下で豊川さんのおばさんパーマを見つけた寮の住人がそれを いじり始めたのだ。「なんだよ?そのパーマ、おばさんじゃんww w」豊川さんの顔がみるみる赤くなる。そして、 寮の住人がおばさんパーマに触ろうとしたとき豊川さんがついにキ レた。「ざけんじゃねーぞ!この野郎!!」 豊川さんが寮の住人に掴みかかると、殴り合いの喧嘩が始まった。 決着はあっという間についた。 私はボコボコにされた豊川さんに肩を貸しながら部屋へと戻ると、 タオルを濡らし豊川さんの顔にそっと当てた。 顔を腫らした豊川さんの虚ろな目に悔し涙が浮かんでいた。 顔を背けるように「ありがとね」とつぶやくように言うと、 こう続けた。「お前さ、やりたいことあんだろ」「だったら、 こんな所にいちゃいけないんだよ」。豊川さんはそれ以上、 何も言わなかった。この言葉は、私を1年で運送会社を辞めさせ、 貯めた金を使って進学予備校に通わせるきっかけとなった。 背中を押してもらったなんて、そんなきれいなものではない。 私がこの言葉に感じたのは、虚しさとか息苦しさであって、 決して前向きなものではなかった。その瞬間、 私は目の前に横たわる豊川さんに自分を重ねていたのだと思う。「 弱いな、俺って」・・・。ともあれ、 私の人生の転機になったことは間違いないだろう。その後、 私は予備校から大学へと進学し今へと至るのだが豊川さんと連絡を 取り合うことは一度もなかった。あれから30数年、 豊川さんが生きていれば、80歳に近いはずだ。 とっくに現役は退いているだろう。豊川さん、 あれからこの世の中は、少しは優しくしてくれましたか。 めんどくさくて、生きづらい世の中だけど、 私はもう少しがんばりますよ。豊川さん。 薫風の季節になると思い出すひと。

テレワークの日の自己嫌悪と感謝の気持ち

弊社のテレワークが始まって2週間が経過した。 始まった当初は会計年度末ということもあり、 手掛けていた仕事の納品作業や、仕入伝票の処理など、 在宅であっても、やることはそれなりにあった。4月に入り新年度 がスタートすると、 緊急事態宣言による企業への自粛要請も手伝って、 クライアントやブレーンが続々とテレワークを開始しだした。 そして、明らかにすべての業務がスローダウンというか、 ストップしてしまった気がする。新しい案件も入ってこない。 こういうご時世なのだから仕方ないと思いながらも、 どうもソワソワと落ち着かない。なんだか焦燥感にかられている。 自分でも呆れてしまうのだが、世の中、 コロナウィルスによるさまざまな弊害が起きているのに、 それを承知していながら、 時間を持て余している自分をいちばん気にしているなんて、 なんと狭量なのだろう。ほんとに情けない。 この瞬間にも罹患して苦しんでいる方や、医療に奔走している方、 職を失い明日の食い扶持すらままならない方がいっぱいいるのにね 。少なくても、もっと家族や友人の健康やとか生活を気にしろよ、 とさえ思う。もちろん、そういう方々に対して、 自分にできることなんて何ひとつない。 そんなことは分かっている。だから偉そうに物を言える立場ではない。 ただね、気持ちの問題なんだ、気持ちの。人を想い、 労わる気持ち。励まし、感謝する気持ち。 私の気持ちなんてクソの役にも立たないことも知ってるよ。 ただね、こんな時くらいあってもいいと思うの、 そういう気持ちって。こんな時だからこそだよ。それなのにさ、 自分のことばっかり気にしている。いい歳なんだから、もう少し余裕のある考え方ができないのかね。ワーカホリック社畜か ただの老害か。 それとも日頃からこういう気持ちを持ち合わせていないからダメな のだろうか・・・。そんなことを考えながら、 本日のテレワークが終わっていく。今日、唯一の人との接点は、 近所のコンビニのレジで対峙した男性店員だった。 コーヒーと煙草を買う。この店員もまた、こんな状況下で、 ひたむきにサービスを続けてくれている。「 ありがとうございました」店員の屈託のない明るい声に、 鬱屈した気分も少し晴れる。お釣りを渡された私は「うん、 ありがとうね」という言葉で応えた・・・。多分、 自然に言えたと思う。