街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

日大アメフト部の問題を見て「潰す」と言われた自分を思い出す

潰す(つぶす)。

今、最も注目されているコトバの一つだろう。

肝を潰す、時間を潰す、面目を潰す・・・。

日常的に使われるコトバではあるけれど

そこに悪意が込められると、とたんに怖いコトバになる。

大きな社会問題となった日大アメフト部の選手による

悪質なタックル問題の中で争点となっている

クォーターバックを潰せ」の中に

故意にケガをさせろ、という悪意があったとしたら

それは恐ろしい。

けれど、考えてみると人間を対象に「潰す」を使うときは

大なり小なりの悪意を伴うことが多いのではないだろうか。

空き缶やニキビに対して使う「潰す」とは違う。

「てめぇ、このニキビ、潰すぞ」とはならない。

その悪意が、どれだけ邪悪かどうかだ。

日大アメフト部の問題では

度を超えた悪意を伴った「潰す」だったということだ。

主に体育会や喧嘩のシーンで使われることの多い

人に対しての「潰す」だが

これが職場で使われると、それはそれで恐ろしい。

コンプライアンス全盛の今でこそあまり

聞かなくなったが、一昔前は確かに存在した。

私は、サラリーマン人生の中で、2度

悪意のある「潰す」を体験している。

今思うと、両方とも交通事故みたいな出来事だった。

1度目は、私が入社して間もない頃の話しだ。

その日はクライアントへの企画プレゼン。

平平の私は企画書とプレゼン用のボードを抱えながら

先輩に連れられクライアントへと向かった。

それは、私にとって初めての経験。

私自身がプレゼンするわけではないのだが

段取りとか、お作法のようなものがまったく

分かっていないので、不安でたまらない。

先輩からは「お前ボード担当な」とだけ言われていた。

プレゼンテーターの説明に合わせて

企画やデザインが拡大されたパネルを

クライアントに向かって掲げるのがボード担当の役目だ。

プレゼン会場に到着すると

「お前はここに立ってボード出して」という先輩の指示で

「あ、わかりました」とスタンバイ。

すでに緊張で足が震えていた。

この日のプレゼンテーターはフリーのディレクター。

厳しい人で有名で、業界内でも恐れられるほどの重鎮だ。

いよいよプレゼンがはじまった。

失敗しちゃダメだ・・失敗しちゃダメだ。(エヴァ碇シンジ風)

私は全神経を集中させて、プレゼンテーターの声に耳を傾ける。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

ん?

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

き、聞こえない!

この人、めちゃくちゃ声が小さい。

終止ボードを出すタイミングがズレまくった私。

結局プレゼンも締まりのないまま終わった。

で、プレゼン会場を出た瞬間にディレクターに言われた。

「お前、潰すよ」って、小さな声で言われた。

さすがに先輩たちは同情してくれたけれど

本当に怖くて、死ぬかと思った。

このディレクターの「潰す」にどんな意図が

込められていたのか、知る由もないが

「業界から抹殺してやるよ」くらいの悪意はあっただろう。

そして2度目は入社して3、4年目の頃

会社を辞めた先輩に久しぶりに再会した時

挨拶のつもりで、私から声をかけた。

「◯◯さん、ちょっと太りましたか?」って。

そうしたらいきなりの「お前、潰すよ」・・・だ。

明らかに「殴ってやろうか」の「潰す」だった。

私も無神経だったのだろう。

先輩、よっぽど機嫌が悪かったのかもしれない。

でも、こうなるとわけが分からない。

どこに地雷があるのか分からない。

・・・コミュニケーションはむずかしい。


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社内情報の錬金術士とその処世術

社内情報の錬金術士がいる。

社員の人間関係、社内恋愛、出世レース・・・。

ゴシップからオフィシャルに至るまで

多くの社内事情に精通している40代の女性。

職場ではデスクを担当している。

この女のコミュニケーション力はかなり高い。

デスクという立場上、他部署のハブとして

機能するため、社内のいたる所に顔が利く。

そして、人当たりの良さを武器に

おやじ世代を中心にした独自のコミュニティを

複数ライン形成している。

典型的なおやじ転がし、おやじホイホイだ。

それぞれのコミュニティは「飲み会」というカタチで

この女の貴重な情報収集の場になっている。

そこで得た社内情報を社内で生きる糧にしている。

おやじの中には経営に近い立場の人間も

いるので、この女は侮れないのである。

女は情報をコミュニティ間で対流させて

自分の存在感を強める。

つまり、Aのコミュニティで得た情報を

Bのコミュニティに提供しつつ、新しい情報を得る。

それをCのコミュニティに提供して、新しい情報を得る。

それをまたAのコミュニティに提供する・・・。

この情報の対流を永遠と繰り返しながら

コミュニティの数を増やし、さらに拡大させていく。

(もちろん、飲み代もおやじにおごらせる)

これが、この女の情報練金術だ。

私も、この女の練金術のカラクリを知る前は

同僚としての付き合いがあった。

この女の情報収集の場だとも知らずに

飲み会にも参加した・・・。

ある日、私の飲み会での言動が

別のコミュニティに筒抜けだと知らされた時

(別の同僚が教えてくれた)

気分が悪くなって、吐きそうになった。

私の言動が、ゴシップネタにされたのである。

しかも、内容はかなり歪曲されていた。

発信元はもちろん錬金術士だ。

それ以来、仕事以外でこの女とは関わらないようにしている。

ちなみにこの女の見た目は、ブス

それは、私の主観ではなく、弊社の男性社員を

代表して主張してもいい。

ブスの統計があるなら参照してもらえばいい。

けれど、不思議なことに

性格だけはいい?と思われている。

みんな人当たりの良さに騙されているのだ。

おやじは特に騙される。

人付き合いが生命線になっているから

基本、人に嫌われないように振る舞うのだ。

権力のある人間に対しては、特にそうだ。

どうして気づかないのだろう、と思うが

きっと、気づかせないのが

この女の世渡りの上手さなのだ。

今宵もどこかのコミュニティのおやじを相手に

社内の情報を小出しにしながら

おいしい酒をおごらせているのだろう。

そうして新しい情報をゲットしてほくそ笑むのだろう。

一切関わりたくないから、私は沈黙する。

でも、本当は叫びたい。

指を指して叫びたい。

この女、顔もブスだけど、性格もブスなんだぜ!

・・・言える訳がない。

あぁ、もどかしい。


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自分を覚えていてくれるという幸せ

この世から、自分の存在が

こつ然と消えてしまったら

どういうことになるのだろう?

答えはカンタン。

まったく何にも変わらない。

そんなことは、とっくに知っている。

だからこそ、いま、私が存在している世界での

私の「現在地」が気になったりもする。

早い話が

人付き合いに面倒を感じながらも

人から忘れられることが怖いのだ。

存在しているのに

存在していないかのように扱われるのが

恐ろしくてたまらないのだ。

人間として未熟だと思うが

こればかりはどうしようもない。

そんな自分だから、普段の暮らしの中で

自分が認識されている事を感じると

ほっこりしたりすることもある・・・。

 

私がよく利用する職場近くのコンビニに

愛想のいい、ちょっと変わった店員さんがいた。

日本人男性で、歳は30代半ばといったところか。

その店員さんのレジに当たると

「いつもありがとうございます」

と必ず声をかけてくれる。

覚えていてくれるのだ。

そうするとこちらも

「今日は暑いですね・・・」

なんて、社交辞令の一つもすんなり出てくる。

私はこのコンビニで煙草を買う事が多い。

「◯◯◯(煙草の銘柄)をください」と私。

「はい、どうぞ」と店員さん。

これが基本のコミュニケーションだ。

しかし、この店員さん、いつしか

私がレジの前に立つと、条件反射のように

頼んでもいない煙草を持ってくるようになった。

サービスのつもりなのだろう。

「覚えていてくれるんですね、すごいですね」と私。

すると「いいえ、そんなことないっす」と照れながらも

店員さんはとても得意気だった。

「ありがとうございました」の代わりに

「お仕事、がんばってください」

と言って送り出してくれる。

まあ、私がいつも煙草を買いたいわけじゃない。

考えてみれば、おせっかいな話しだ。

サービスの本質を履き違えているのかもしれない。

けれど、この店員さんのサービス精神を

無下にするような気がして

「煙草、いりません」とは言えなかった。

そうして私は

店員さんが黙って差し出す煙草を買い続けた。

私を覚えていてくれる人が、そこにいる。

結局、それで、私も満足だったのだ・・・。

こんな些細な交流が1年ほど続いたある日

いつものようにコンビニへ行くと

その店員さんの姿がなかった。

休みかな?

次の日も、その次の日も、週が明けても

店員さんの姿はなかった。

気になったので

コンビニの他のスタッフに聞いてみることにした。

すると、急に辞める事になったのだという・・・。

もちろん理由なんて分からない。

私はこの店員さんについて何も知らない。

(名札で苗字は知っていたが)

個人的に特別な感情もない。

私たちは、ただのコンビニ店員と客に過ぎない。

けれど、この一件は私の胸をざわつかせた。

それは、決して寂しさではない。

私の周りから、私を覚えていてくれる人が

一人いなくなってしまった・・・。

それは、そんな喪失感だったのかもしれない。


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満員電車がコワすぎて

満員電車はコワい。

満員電車を好きな人はいないと思う。

(痴漢とかスリとか変態じゃない限り)

オヤジの吐息、べた付いた他人の地肌、フケだらけの肩

香水、柔軟剤、オナラの匂い・・・etc. 

もう、これだけでも、うんざりだ。

人は自分の80㎝以内に他人が近づくと

ストレスを感じるのだそうだ。

隙間のない満員電車では

感じるストレスも、さらに大きい。

殺気立っている人も多いからトラブルも起きやすい。

「押すなよ」「押してねぇよ」

なんて、よく見かける光景だ。

「次の駅で降りろよ」「上等じゃねぇか」

そんな風に発展する事も。

私にも覚えがある。

満員電車の最大のストレスは

こういうトラブルに巻き込まれる可能性が

誰にでもあるという事ではないだろうか。

みんなそれを分かっているから

周囲との間合いに、余計に神経を使う。

(痴漢に疑われたくないのもそうだ)

そして、さらにストレスが溜まる。

こんな負のスパイラルがだめで、心が荒む。

というか・・・

私みたいな人間は、特にダメなんだと思う。

トラブルが起きやすい。

いや、起こしやすいと言ったほうが正しいか。

それがコワいのだ。

そのくらいの自覚はあるのだ。

4、5年前だろうか、決定的な出来事があった。

とある日の朝、通勤時の話だ。

私はいつものように、自宅の最寄り駅から

混雑率200%以上の電車に乗ろうとしていた。

電車が到着。降りる客はいない。

すでに、トビラ付近まで人が溢れている。

そのトビラから乗る客は、私を含めて10人ほどだ。

先頭の私は、溢れる人を背中で押し分けながら

車内へ体を滑り込ませる。

その時、ふくらはぎの当たりに何かが当たった。

と同時に「いたい」という子どもの声。

足元を見ると、そこには3歳くらいの女の子が立っていた。

女の子は母親の脚にしがみついている。

うそだろ? 

こんな小さな子どもを、こんなくそ満員電車で

立たせている母親の神経を疑った。

それでも「ごめんね。痛かった?」と女の子に。

そして「すみません」と母親に頭を下げた。

女の子にケガはなさそうだ。

・・・と、ここまでは良かった。

するとこの母親、ねちねちと文句を言いはじめた。

それが、私に言うのではなく

私に聞こえるように、私への当てつけで

自分の子どもに向かって話はじめた。

「痛かったわねぇ」「怖かったでしょ」「危ないわよねぇ」

そんな感じでいろいろと。

アホらしかった。けど我慢できなかった。

あなた、こんな満員電車にお子さんと乗るのなら

お子さんを抱っこしたらどうですか

あなたのしてることは、とっても非常識ですよ

お子さんが可哀想です」

こんな内容の事を、オラオラ調で言ってやった。

・・・ここは満員電車の中である。

おそらく、2メートルくらい先の人には聞こえていただろう。

結局、この親子は次の駅で降りていった。

私も気まずさから、その次の途中駅で電車を降りた・・・

今でもこの母親の行動は非常識だと思っている。

それにしてもだ、自分も如何なものかと思う。

相手は子連れのか弱い女性だったのだ。

そこまでやるか?という思いがある。

いずれにせよ、満員電車ではこんなことも起きる。

だから乗るの止めた。

この出来事のあった次の日から

私はチャリンコで通勤している。

チャリンコサイコー。


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言葉の殺傷力

「お前、殺すぞ」

私のしくじりコミュニケーションの一つ。

私が口にしてしまったリアルな言葉。

もう20年以上前の話しだ。

相手は、同じ会社の営業に近い立場の人間で

キャリアは私の2コ上。

仕事が上手くいった時は、自分の手柄にして

仕事が上手くいかない時は、他人のせいにするようなやつ。

典型的な嫌われ者である。

こいつと仕事をするときは、心の平静を保つ事に

配慮しなければならなかった。

つまり、自分がキレないように注意していたのだが・・・。

そんなある日、こいつとの仕事で何かのミスがあって

クライアントに事情を説明することに・・・。

すると、こいつ

「うちのスタッフが勝手にやったことです」

いやいや、違うし。

けれど、クライアントの前で反論もできないので

「スミマセン」と私。

とにかくこいつは自分の保身のためだけに

しゃべり続けた。

この流れで言ってしまった。

「お前、殺すぞ」って。

この一件は、こいつが総務部にチクったおかげで

ちょっとした事件になり

私はかなりのペナルティを負うはめになった。

こいつに謝罪もした。

当時の上司は「殺すぞ、はまずいぞ、殺意があるからな」と言ったけど

殺意を込めたのだから、当たり前だ。

私は相手に最高の恐怖を与えるために

いちばん殺傷力のある言葉をチョイスしたつもりだ。

(事実、ほんとに殺されると思ったらしい)

でも近年は

SNS界隈で猛威を振るった「死ねばいいのに」が

いちばん怖いと思う。

「死ねばいいのに」は呪詛だ。

どうしても死んで、という冷たさがある。

自分では殺らないけど、という狡さがある。

どことなく無責任な感じがするところが、また怖い。

「殺すぞ」は脅迫になるけど、「死ねばいいのに」は

脅迫にならない、というロジックに守られながら

(実はそうでもないらしいのだが)

周到に用意された言葉だ。

こいつに比べれば「殺すぞ」なんて可愛いものだ。

とにかく、言葉が殺傷力を持っているのは事実。

誰かと口論になって

売り言葉に買い言葉があって

より相手を傷つけようとするなら

「お前、死ねばいいのに」を

できるだけ無表情で言えば最強(最恐)だと思う。

うん、20年前のあの日に戻れたら、そうしよう。

いまは・・・言う方にも、言われる方にもなりたくない。

売り言葉に買い言葉で思い出した。

些細な事で同僚と口喧嘩になったとき

相手に「クズ野郎」と言われた事がある。

私は「カス野郎」と応戦した。

・・・「クズ」と「カス」ではどっちの殺傷力が高いだろう。

というか、子どもの「チ◯コ」と「ウ◯コ」と同じだ。

なんとも低レベルだ。


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50代会社員がそれ以上でも、それ以下でもない事を悟った件

50代会社員。

いまの私のすべて。

それ以上でも、それ以下でもない。

もし、いま私が犯罪を犯して、ニュースで報道されると

50代会社員のA容疑者となる。

決して、50代会社経営とか50代会社役員にはならない。

(容疑も傷害がいいところだ)

50代って、社会の勝ち組と負け組が

はっきりと分かれる年代だと思う。

私は明らかに負け組だ。

会社員として四半世紀とちょっと

それなりにがんばって働いてきたつもりだ。

半ばコミュニケーション障害を隠し

なんとか社会と折り合いをつけながら

いい仕事を目指し、常に前を向いてやってきた。

そうすることを疑わなかったし、そんな自分に満足だった。

40代まではそれで良かった。

けれど、50代の声を聞いたら急に不安に陥る。

「あれ、俺、今まで何やってきたんだっけ?」

それで、前を向いて働いてきた自分の後ろには

何があるのか、恐る恐る振り返ってみた。

そしたらそこには・・・何も・・・ない・・・。

水前寺清子さんの『三百六十五歩のマーチ』に

♪〜あなたがつけた足跡にゃぁ、きれいな花が咲くでしょう。

という歌詞があるが

花が咲くどころか、足跡すら残っていないのだ。

まったくの『無』。

仕事も、信用も、人も、権力も、金も、何もない。

そこにあるのは、50代会社員という実態だけだ。

ポツン・・・。

これにはかなり凹んだ。

ハイ、50代会社員、負け組確定。

負け組って、何も残せていない人を言うのだと思った。

取り返しがつかないからもっと凹む。

そうすると今度は

何も残せていない自分の立ち位置というか

価値というか、そんなものが無性に気になりはじめる。

「俺って、誰にも必要とされない人間じゃん」

身内に対してではなく、あくまでも社会に対して。

(身内には必要とされていると思いたい)

そんな思考になるのだ。

過去を取り戻す事はできない。

そして、もしこれから何かを残そうとするとして

自分に何ができるのかは分からない。

残りのサラリーマン人生の中で見つけるべきなのか

何らかの社会貢献なのか、金儲けに走るのか。

今更ながら考える、今日この頃・・・。

まあ、今更そんな事を考えているから

ただの50代会社員なのだろう。


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歩きスマホの人にぶつかりそうになって、家内にこっぴどく叱られる

歩きスマホの人に故意にぶつかってケガをさせたり

金品を要求したりする「当たり屋」が増えているという。

昨年も兵庫でスマホをしていた女性が体当たりされて

重傷を負ったという事件があった。

歩きスマホそのものが社会問題になって久しいが

「当たり屋」はまた別の問題で、別の迷惑である。

確かに歩きスマホの人が、自分の動線上にいたら頭にくる。

急いでいる時なんか本当にイライラする。

だからといって、わざとぶつかりに行くのは、どういう心理なのだろう。

ちょっと考察してみる。

当たり屋には、金銭目当てと、金銭目当てではない2種類がある。

金銭目当ての「当たり屋」は、ぶつかって損害賠償金や示談金を要求するが

金銭目当てではない「当たり屋」はそうではない。

実は、最初から、相手を傷つけようと思ってぶつかるのでもない。

このタイプには、歪んだ正義感というか、倫理観があって

それを自分のルールに置き換えて事に及んでいたりする。

その思考のプロセスは例えばこうである・・・

歩きスマホは社会の迷惑。

よって、歩きスマホをしている人は悪である。

だから、ちょっと懲らしめてやれ。

ぶつかったとしても、それは相手が悪い。

そんな感覚ではないだろうか。

自分が悪いことをしているという自覚は少ないのではないか。

ぶつかった相手にケガをさせてしまって

はじめて事の大きさに気づいたりする。

歩きスマホの「当たり屋」を擁護したり指示するつもりは毛頭ないが

こういう人たちの心理がちょっと分かる気もするのだ。

それは、先日家内と外食をともにした帰りの出来事である。

私たちが地下鉄のコンコースを歩いていると

正面から歩きスマホをしている若いサラリーマンらしき人がやってきた。

そんなに広い通路ではないが、身体を避けられないことはない。

けれど、このままお互いが直進すれば

間違いなく肩がぶつかる間合いである。

本当は、自分が数歩横に移動すればいいのだ。

もしくは口があるのだから、言葉で注意を促せばいいだけだ。

「失礼します」とか「通ります」とか

当たり障りのない言い方で、相手に気づいてもらえばいいのだ。

私は30メートル手前からサラリーマンを認識しているが

相手は全く私に気づいていない。スマホに夢中である。

恐ろしい事に、この時の私の思考は先述した

「当たり屋」のそれとほぼ同じだった。

お酒が入っていたことも、その思考に拍車をかけていたのかもしれない。

20メートル、15メートル、10メートル・・・。

何でこいつのために自分が道を譲らなければならないのか。

ぶつかっちゃうけど、歩きスマホしてる方が悪いから仕方ないよね。

あぁ、ぶつかっちゃうな・・・。

その瞬間、家内が私の肘を抱えて、自分の方へ私の身体を引き寄せた。

家内の機転によって、衝突は回避されたのである。

若いサラリーマンはようやく目の前の私たちの存在に気づき

「あっ、すみません」と言って、すれ違っていった。

歩きスマホが迷惑行為であることは事実だが

そんな人たちへの対処の仕方で、まったく違う結末になることも確かだ。

私が「当たり屋」になってしまうかもしれなかった。

ケガをさせてしまう可能性もあった。

これには猛省である。

故意の衝突は論外だが、過失であっても罪に問われる可能性もある。

どちらにとっても不幸な出来事である。

日本には、歩きスマホそのものを規制する法律はまだない。

そんな法律ができることが、本当にいいとも思わない。

モラルという一言で済ませるのは簡単だが

スマホを使用することにおいて、周囲の人との関係とか距離感とか状況を

みんなが考えられる、成熟した社会になればいいと思うのだ。

「危険に巻き込まれないため」とか「面倒くさい事を避けたい」とか

「家族が路頭に迷うかもしれない」とか。

そんな自分本位な考え方でもいいと思う。

それもまた、コミュニケーションなのだ。

ちなみに家内はこの時「気をつけてよ!」ではなく

「もう、やめてよ!」と言って、めちゃめちゃ怒った。

家内は、私の危うい思考をお見通しだったということだ。

それは、それで恐ろしいと思った。


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映画『ロンドン、人生はじめます』を観て“なりすまし友だち”を考える

映画を観てきた。

ダイアン・キートン主演の『ロンドン、人生はじめます』。

実話に基づいた、ロマンティック・ラブドラマである。

ここでは映画そのものの感想について詳しく言及しないが

まあまあ良い映画だったと思う。あらすじは下記のとおり。

ロンドン郊外の高級マンションで暮らす主人公エミリーは夫の死後

様々な問題に直面し、日々を悪戦苦闘していた。そんなある日

ホームレスの男性と出会い、本来の自分を取り戻していく・・・。

この映画の中で主人公は、同じマンションに住むミセスたちと

ご近所付き合いをしているのだが、そのミセスたちの親分格のマダム

との人間関係がちょっと面白い。

マダムは主人公を友だちと呼び、様々なコミュニティ活動に

勧誘するのだが、主人公はその人間関係にげんなりしている。

けれど、生きていくため便宜上マダムの友だちを受入れている。

この関係が面白かったのは、一見マダムが一方的に主人公を

友だちと思い込んでいるように見えるのだが、実はそうじゃない。

マダムもまた、主人公を友だちとは、思っていない事だ。

自分の活動に役立つから、友だちとして身近に置いておきたかっただけだ。

要は、お互いに友だちではない他人を、友だちとして付き合っている。

“なりすまし友だち”なのだ。

いまさら、友だちを定義するつもりはない。

無理矢理定義しようとするメディアや

人もいるにはいるがナンセンスだと思っている。

友だちの解釈なんて人それぞれでいいと思うし、その時々で変化してもいいと思う。

(というか当然そうなると思っている。)

だから私にとっては友だちだけど、相手は知人としか思っていない

という事も起こりうる。

前者にしてみればショックな事なのかもしれないが

後者の解釈を否定する事はだれにもできない。

食べ物の好き嫌いが人によって違うように、友だちの解釈も

人によって違うものである。
けれど、世の中には、この映画の登場人物のように

友だちになりすますことで、コミュニケーションを円滑にしたり

自分が暮らしやすいように仕向けたりするケースがある。

こんな関係に心当たりのある人は案外多いのではないだろうか。

なりすましの友達関係には打算が働いていることが多い。

それは、相手にとっても自分にとってもも言えることだ。

もし、そのコミュニケーションに不自由がないのなら

逆に居心地の良さを感じているのなら

なりすまし友達の関係を清算する必要はないと思う。

社会生活には、むしろ絶対に必要な気もする。


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