街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

職場にある喫煙スペースの居心地の悪さ

コミュニケーション力が無いことを隠して生きていると

無理をして笑ったり、話しかけられたらそれに応えたり

ちょっと元気なふりをしたりと、何かと面倒くさい。

本当は、挨拶すらしたくないくらい面倒くさい。

そして、その面倒くささもまた、隠さなければならない

まったくの悪循環だ。

だから、私はできる限り人との接触を避けようと生きている。

仕事上の人間関係、職場内の人付き合いについては特にそうだ。

ときに私は喫煙者である。

時代の潮目から言うと非・非喫煙者と言った方がいいのかもしれない。

昨今では、居場所を追われ、喫煙スペースを見つけるのも一苦労なのだ。

職場のあるオフィスビルには喫煙スペースが1カ所ある

いや1カ所しかない。このビルで働くすべての喫煙者が集まる。

もちろん私と同じ会社、同じ職場の人間たちも集まる。

私はここで繰り広げられるコミュニケーションが苦手でならない。

誰かに話しかけられるのも嫌いだし、だからと言って

知らん顔で、スマホをいじりながら煙草を吸うのも何かバツが悪い。

私にとって「いっぷく」はリラックスできる瞬間であるはずなのに

逆に緊張してしまう。とにかく居心地がよくないのだ。

そこで私は、徒歩5分をかけて隣のビルの喫煙スペースに通っている。

他の利用者はいるが、誰も私を知らない、私も誰も知らない。

非効率なようだけれど、心の平静を保つには

いまのところベストなやり方だと思っている。

ストレスもないし、おのずと煙草の本数も減るし、歩くから運動にもなるし。

一石三鳥ということだ・・・。なんて、言っているけど

ただの自意識過剰なのかもしれない。

誰も私のことなんか気にしてないのかもしれない。

別にそんなことを知りたいわけでもない。

あぁ、昔はこんなじゃなかったのに。

人との出会いがすき、なんて言えるときもあったのに。

なんか、年々ひどくなっているような気がする。

まあ、いいや。

明日も隣のビルへ行こう。いっぷくしに行こう。

私を含めて、誰も嫌な思いをしないで済む。

それだけは、確かだ。

 


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頭のおかしいクライアントに我が心を冒される

ここ最近、頭のおかしい人と仕事をしている。

クライアントだ。

自分の主張が正しいと信じて疑わないエゴイストで

こちらの善意の提案を屁理屈でことごとく潰していく。

それが、コンテンツの、いわゆる「表現」に関わるところだから

私にとっては、たまったものではない。

提案を潰されるだけならまだしも、そのうち自分で表現しはじめる。

勝手にコピーを書いたり、デザインやレイアウト領域に介入してきたりする。

言っておくが、こいつはただの広報担当であってコピーライターでもデザイナーでもない。

何かを表現し、カタチにできるようなプロフェッショナルではない。

こういう人物の特徴として共通して言えるのは

自分を「表現者」と勘違いしているということだ。

自分が、もの創りをしていると錯覚してしまうのだろう。

自分が表現していると思っているので、基本、人の言う事を聞かない。

クライアントという威を借り、すべてにおいて口を出してくる。

プロの表現者を目の前にして、穴だらけのクリエイティブ論を展開する無神経さには

ある意味、感心させられる。ほんと、よくもまあ、臆面もなく・・・。

「キャッチーなビジュアルにしてほしい」だって。

“キャッチー”に殺意を覚えた。

そんな具合だから、社内の調整だとか、事実確認とか

そういった企業の広報担当として本来必要な役割がまったく果たされていない。

けれど、本人にその意識はまったくない。

むしろ喜々として間違いだらけの表現をぐいぐいと押し付けてくるのだ。

「餅は餅屋」ってたとえ知らないのかな。

自分を「餅屋」だと思っているから仕方ないか。

お前ってバカなの?バカでしょ?

こういう人物がいるとどういうことになるか。

現場が混乱するのは当然のことだが、こいつが何かを言えば言うほど

わけの分からないダメなコンテンツになっていく。

優秀なスタッフがピカピカに磨いた表現を、どんどん汚していくのだ。

そして最後にはウンコみたいなものが出来あがる。

悲しいかな、いまの私の仕事もウンコまっしぐらだ。

立場上は、私がこいつをコントロールしなければいけないのだが

試みてはみたものの、頭がおかしいので正論が通用しない。

まったくコミュニケーションがとれない。

私の心の冒され方の推移はこうだ。(心の声を伴って)

 

ステージ1・・・驚き(こいつって、何なんだ!)

ステージ2・・・怒り(お前、いつかぶっ飛ばす)

ステージ3・・・呆れ(はいはい、今度はなんですか?)

ステージ4・・・諦め(どうぞ、好きなようにしたらええのんや。)

ステージ5・・・崩壊(ヘヘヘヘ・・・へへ。)

 

いまの私の心のステージは3と4の間くらいだろうか。

進行が早い。

ヤバい、ヤバすぎる。がんばっている他のスタッフに申し訳ない。

いま私が踏ん張らないでどうする。

ステージ5に達してしまったら、この仕事は

ウンコになってしまう・・・。

それだけは、どうしても避けなければならない。


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キーちゃんを理想のタイプと言っていたヒトの思い出

北澤 豪 愛称「キーちゃん」を理想のタイプというヒトがいた。

今やキーちゃんは、サッカー解説者として様々なメディアで活躍しているが

私にとっては、同世代のサッカー選手として強く印象に残っている。

キーちゃんはタフでよく動く選手だった。

ピッチを縦横無尽に駆ける姿はまさに「ダイナモ」というニックネームに相応しかった。

いいフィールドプレーヤーだったのだ。

ただ、その容姿はちょっと独特で、小柄で豆タンクのような身体

日焼けして黒光りする顔面に張り付く長い髪、どちらかと言えば異形である。

今でもその雰囲気はあまり変わっていない。

当時、キーちゃんの女子人気がどの程度のものだったのかは記憶にないが

あくまで私の主観で見れば、その容姿は決して「モテる男」とは言いがたかった。

(実際はすごく美しい嫁がいらっしゃいます

事実、私はこれまでキーちゃんのファンだと言う人にお目にかかったことがない。

 

そんなキーちゃんを「大好き」と言って憚らないそのヒトに出会ったのは

今から5年ほど前のことである。

私にとって、クライアントにあたるそのヒトは

いわゆるアラフォー独身女子で私の仕事の良き理解者でもあった。

年齢の近さもあったと思う、彼女とは妙に馬が合い、たくさんの仕事をいっしょにした。

どの仕事もやりやすかったし、楽しかった。

(実は彼女が、社内調整やら、いろいろと取り計らってくれたおかげなのだが)

だから、彼女と個人的な会話をするようになるのも、そう時間はかからなかった。

とある日、仕事の打ち合わせが終わり、私と彼女は他愛のない世間話をしていた。

そんな流れだったと思う。

「◯◯さんって、どういう男性がタイプなんですか」と私。

すると「キーちゃん!」と彼女が即答。

キーちゃんって、サッカーの北澤ですか?と明らかに怪訝そうな私に

えーっ。やっぱりダメですか?と明るく笑って応える。

「やっぱり」という事は、私以外の人間にも男の趣味についてつっこまれることが多かったのだろう。

彼女自身も自分が“特殊”であることを自覚していたのだと思う。

どこがいいのかと聞いてみるも「うーん・・・何となくです」と

茶目っ気たっぷりに私を煙に巻いていた。

 

そんな彼女は、もうこの世にはいない。

去年、突然逝ってしまったから。

もう、キーちゃんが好きだという心理を探ることもできない。

ワールドカップが始まってから、キーちゃんをよくテレビで見かけるようになった。

その度に私は心の中で泣きながらつぶやく「◯◯さん、キーちゃん今日も出てますよ」。

 


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ニッポンの勝利とにわかサポーターとコロンビアのサポーター

サッカーW杯。

日本がコロンビアに勝った。

とりあえず、みなさま、おめでとうございます。

試合当日は、さぞや日本各地で盛り上がったことだろう。

私もホッピー片手に自宅観戦を決めこみ、大いに楽しむことができた。

サッカー観戦自体はどこで楽しんでもいいと思う。

私のように自宅で、パブリックビューイングで、スポーツバーで、居酒屋で。

それは、それでいい。勝って喜ぶのもまたいい。

ただ、その喜び方が問題だ。

公共の場でバカ騒ぎして他人に迷惑かけるのだけはやめてくれと言いたい。

当日の夜も渋谷のスクランブル交差点ではお決まりのバカ騒ぎ。

緊急車両の走行を妨害する場面もあった。

これでよくお隣の国の民度が低いなどと言えたものだ。

いつものことながら情けなくなる。

彼らをひいき目に「サポーター」と呼ぶのなら

対戦国のコロンビアとは雲泥の差があると思った。

この試合をテレビで観ていた私は

スタジアムを黄色く染めていたコロンビアサポーターの多さに驚いたのだ。

日本サポーターとの比率は、コロンビアの8:2といったところだろうか。すごい迫力。

コロンビアってどちらかというと貧困国だよな?よくロシアまで行けるな。

これは私の偏見なのだが、そんな風に思ってしまった。

ちょっと調べてみると国民の平均年収は日本円で約500,000円。

単純計算で日本の8分の1ほどだ。

ロシアまでの航空運賃だって、片道で日本の4倍ほどかかるらしい。

渋谷で騒いでいると比較してはコロンビアサポーターに失礼だが

魂が違いすぎるのだ。

片や、母国の威信と誇りを背負って戦うの英雄たちを

心から応援しようとするサポーターと

ただお祭り騒ぎがしたくて、ワールドカップにかこつけてサポーターになりすまし

他人に迷惑をかけるにわかサポーターとは魂の質が違いすぎるのだ。

もちろん、日本サポーターにも魂の質が高い人はいるし

コロンビアサポーターにも日本人女性に卑猥なコトバを言わせて

SNSで叩かれるようなアホもいる。

結局は個人の意識の問題になるのか・・・。

人種とか国籍ではなく、あくまでも人間個人としての意識は高くありたいと思う。

ちなみに私はサポーターでも、にわかサポーターでもない。

スポーツをこよなく愛する、ただのスポーツファンである。


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クソ役に立たない経験をさせられる同僚といつまでも人を育てられない組織

 

「仕事がなくて、困ってるんですけど」

 

 入社3年目の男性社員が私に相談してきた。

この男性社員は28歳の転職組で

入社して間もなくまったく畑違いのグループ会社へ出向に飛ばされ

今年の4月にようやく戻ってくることができた。

どう考えてもまともな人事じゃない。

私は立場上、この社員に対して何の責任も権限も持っていない。

管理職でもないし、組織上のリーダー的な役割を任されているわけでもない。

もちろん一緒に仕事をしたことは一度もない。

ただ、彼が何を目指してこの会社に入ってきたのか

どんな職制に就きたいのかということは私も理解していた。

私が管理職の上司に相談したのかと尋ねると、相談はしたけど

「今は君に見合った仕事がないから、もうしばらく我慢してほしい」

と言われたという。明らかに放置されている。

確かに、この2ヶ月というもの彼は暇を持て余している様だった。

多少は気になっていたので、様子を窺ってみていると

就業中はひたすら業界誌を読み耽っているか

ネットで何らかの情報を漁っていることが多かった。

「でもさ、まったく仕事がないわけじゃないでしょ?」と私。

すると、「あるには、あるんですけど・・・」と歯切れが悪い。

どんな仕事?と促してみると「湯呑み茶碗を選んでいます」というのだ。

何だそれ?と言ってしまった。聞けばこういうことらしい。

とあるイベントのノベルティとして湯呑み茶碗を企画しているらしく

コストはどうとか、クライアントのロゴは入れられるかとか、◯◯焼きが適しているとか

そんなことをさせられているというのだ。

「益子とか有田とか陶器にめちゃくちゃ詳しくなりました」と彼。

彼がネットで何をしていたのか、納得できた。

でも、それってオレらがやる仕事なの?

もちろんこういうこと仕事を業にしている人はたくさんいるのだろう。

それはそれで専門性を必要とする大変な仕事だと思う。

けれど、彼を含め私たちの本業は、もう少しコンテンツ制作寄りの仕事をしている。

画を書いたり、文章を書いたり、デザインしながら

一つの表現物を創り上げる組織なのだ(私はそう思っている)。

決して「湯呑みの目利き」を育てるような組織ではない。

曲がりなりにも彼はライター志望である。

若いとは言えない歳だが、ちゃんとビジョンがある。

まったく、組織は何を考えているんだか。念のために私は上司に掛け合ってみた。

すると「やってもらうこともないし、いい経験だから(湯のみの仕事)」と素っ気ない。

おいおい、やらせることなんて、山ほどあるだろ。

やらせることなかったら、文章の50本も書かせたらいい。

それに経験だからといって何でもやらせりゃいいってもんじゃないだろ?

それって、「経験だから美容師の仕事してみよう」とか

「経験だから銀行の仕事してみよう」と言っているに等しいよ。

この世界でがんばりたいと思う人間にとって、まったく意味がない。

ここはキッザニアかよ!

これだからこの職場は若い才能が育たない。伝統的に専門職が育たない。

彼らが目指している事とのギャップがありすぎる。

やる気のあるやつはこういう環境にスポイルされて、やがて退社する。

要は、組織が若い意欲を扱いきれないだけなのだ。

そんな光景を幾度となく見てきた。いい加減に目を覚ませば?このボンクラ!と

10年前なら噛みついていたところだが、今はそんなこともしたくない。

「そうですか」と私、「それなら、僕の下に彼をつけてもらえませんか」

と提案してみた。

するとこの上司、俄に目を輝かせ「そう?君がそう言うなら、いろいろと教えてやって」だって。

バカか?おまえ。教えられることなんかねーんだよ。

だいたい「いろいろ」って何だよ、部下の教育について何の計画性もないのかよ

・・・とにもかくにも、彼は私の預かりになった。

今は「湯呑みの目利き」仕事の傍ら、私が与えたライターとしての実践的課題を

日々楽しそうに、こなしている。

前述した通り、私は彼について何ら責任を負う立場ではない。

けれど、そんな姿を見ていると、正直、微笑ましい。

なんだろう、何より私を頼ってきたということに意気を感じているのかな。

そもそも、そんな理由で人の面倒を見る私は甘いのだろうか。

まあ、どうでもいいや、少しはいい事ができた気がするから。


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『竹原ピストル』のライブに感じる熱さと心地良さ

竹原ピストルのライブは魂を焦がすほど熱いのだが、やたらと心地が良い。

竹原の謙虚な人間性、清濁の歌声、人の本質を詠った楽曲、チャーミングなMC。

そのすべてが成せる業だと思う。

そして居心地の良さを感じるもう一つの要因は、ライブの「客筋」である。

もちろん同じアーティストを観にきているのだから、ちょっとした連帯感はある。

けれどそれだけではない。

観客の平均年齢は有に40歳を超えているだろう。

年齢の近さから感じる親近感もある。

けれどそれだけでもない。なんとなく人間味があるのだ。人間臭いというのだろうか。

「みんな、生きてりゃ、いろいろあるよね」と労りたくなる感じ。

だからといって、うなだれているのではなく上を向いて生きている感じ。

普通の人より体温が高い感じ。

そんな一見、鬱陶しいオーディエンスの存在がまた心地良いのだ。

きっと、これもアーティストの竹原が、そういう人間を呼び寄せるのだろう。

いい歳のオヤジの唄を、いい歳のオヤジとオバサンが聴いてボロ泣きしている。

そんな光景をまったく知らない人が目の当たりにしたら、びっくりするに違いない。

ライブが終わると、目を赤く腫らした中年たちが会場を後にする。

これも異様である。けれど、私を含めた当の本人たちは

実に心地の良い読後感を抱きなから家路につくことができるのだ・・・。

 

本文とは関係ないけれど、私の大好きな竹原の曲「カウント10」の一節である。

ぼくは「人生、勝ち負けなんてないんだ」という人の人生に

心を動かされたことは、一度たりとも、無い。

うん、ホントその通り。

人生はいつも、勝ち負けの連続だからね。

最近は負けっぱなしだけど。


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映画『万引き家族』のレビューをみて感じたこと。

映画『万引き家族』を観た。

あくまでも個人的な感想であり、ネタバレもほぼありません。

言わずもがな、今年度カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した

是枝裕和監督の最新作である。

映画というよりかは、ドキュメンタリー映像を観ているようで

かといって、映画としてのディテールを放棄しているわけではなく

緊張感を保ちながらエンターテインメント作品として楽しめた。

自然であり等身大。これこそ是枝演出の真骨頂といったところではないだろうか。

演じきった役者陣はみな素晴らしかった。

とくに役者デビューして間もない二人の子役は、実にこの作品にハマっていたし

二人の演技は、パルムドール獲得にも大きく貢献したのだろう。

 

この映画については、すでに多くのレビューがアップされているが

その中でちょっと気になるものを見つけた。

それは「リアリティに欠ける」というものだ。

「だって映画なんだからさぁ」と思うのと同時に

こういうレビューあげる人は、ちょっと視点が違っているような気がするのだ・・・。

 

この映画は『万引き家族』というタイトルにあるように

「家族」がテーマであって「貧困」や「虐待」がテーマではない。

一見キーワードに思える「万引き」も劇中の家族の性格を

粒立たせるためのプロットの一つに過ぎない。

これを見誤ると「悲惨さが嘘くさい」だの「貧しさに現実味がない」

というレビューになってしまう。

世の中には、先日の「目黒虐待事件」のように悲惨で、貧しい家族の

事例なんて山ほどあるわけで、リアルを超える描写などあり得ない。

この映画を観るならそれを織り込み済みで観るべきである。

 

この映画は悲惨と貧困をドラマチックに描いて

共感を得ようなんて最初から期待はしていないのだ。

期待しているのは、観客一人ひとりが自分の中にある「家族像」と劇中の家族を

照らし合わせることだ。

そうして、戸籍とか法律とか常識を超えたところで

「これは家族ですか」「これでも家族ですか」「これではどうですか」

という具合にストーリーの展開ごとに問題定義してくる。

是枝作品らしく、そこに答えはない。

答えは観客一人ひとりが導き出さなければならない。

狙いは、すごくシンプルなのだと思う。

製作者が意図していないことを指摘している方こそリアリティがない。


最後に、『万引き家族』を是枝監督の別作品『誰も知らない』と

比較している人もいるが、比べているところはやっぱりリアリティと

貧しさと悲惨さの描写についてである。

本来この二つの映画はテーマがまったく違うので、比べること自体がナンセンスだと思う。

もちろん、単純に「好き嫌い」では比べられるのだけれど・・・。

いずれにせよ、どちらも良い映画であることに変わりはない。

だから、私はどちらも「好き」である。


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髪を切った時にみる周囲の反応いろいろ

どうでもいいことだけど、髪を切った。大胆に切った。

私はどちらかと言えば「ロン毛」の部類であったが

それを突然のベリーショートにしたのだ。特に理由はない。色気も何もない。

本格的な夏を間近に控え、こざっぱりしたかっただけである。

ただ、それだけの話しなのだが、周囲の反応に感じるところがあった。

 

ケースその1「似合ってますよ」

これには私も悪い気はしないので、「ありがとう」と素直に言える。

会話自体もこれで事足りるので、余計な気を使わないで済むのだ。

私はこの手のやり取りはほとんど、社交辞令の一種だと思っている。

もはや挨拶代わりと言ってもいい。

誰もおじさんの髪型の変化に関心があるわけではないだろうし

こんな話題は早く済ませるに越したことはないのだ。

 

ケースその2「前の方が良かったですよ」

これにはちょっと困る。どうリアクションしていいものか悩む。

こんなとき私は「そうかなぁ」と言ってお茶を濁しているが

だいたい髪の毛を切ったばかりの人に向かって

前の髪型が良かったと言うのはどういうことなのだろう。

すぐに生えてくるとでも思っているのか。まったく会話に発展性がない。

私としては軽く凹むし

私が不機嫌になるリスクを背負ってまで、言うことだろうか。

繰り返すが、これは社交辞令の一種である。

とりあえず「似合う」と言えばいいではないか。

 

ケースその3「どうしたんですか?」

この反応がいちばん困るかもしれない。

私はその都度、髪を切った理由を説明しなければならない

それが大した理由ではなくてもだ。

「夏だからさ、ちょっとさっぱりしたいと思ってさ・・・」

これで引き下がってくれればいいのだが、こういう人は次の会話を用意している。

「それにしても短くしましたね」と続く。話しが長引くタイプである。

「もう、いじるのやめてくれ」と言いたい。この会話、続けて面白いですか。

 

ケースその4「・・・・・・」

つまり、無反応。正確に言えば、意識的に反応しない

これは無関心とは違う。

あえて、その話題に触れないようにしようとしている。

私は、ある意味いちばん賢い反応ではないかと思っている。

下手な感想を言って地雷を踏むこともないし(私は地雷を踏んだことがある)

私に余計な気を使わせることもない。

無反応な人の中には、こんな人もいる。

きっと私が、誰かと同じようなやり取りをさんざんしているだろうから

あえて、そこに触れないでおこうという人。

そういう配慮ができる人は、素晴らしい思う。

いずれにせよ、こんなコミュニケーションは日常では良くあること

そして、どちらの立場にもなる可能性がある。

私は、ケースその4が居心地いいと思うのだが、正解は一つではない。

髪を切ったことに注目してほしい人もいれば、理由を聞いてほしい人もいる。だから

相手の人間性や立場、自分との関係性に配慮しながら対処すればいい。

そうして生まれたコミュニケーションこそが正解である。

少なくとも、髪型を変えたぐらいのことで、誰かが傷ついたり

誰かが迷惑を被ったりすることだけは避けたい。

自分へも、強く言い聞かせたいと思う。


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