街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

仕事のできない店員と、いい客と

学生時代は都内の高級ホテルで配膳の仕事をしていた。学校そっちのけで働いた。結婚式の披露宴をときどき組み込んで、レギュラーでレストランのウェイターを週5のペースでしていた。私が考える“サービス”の基礎となる経験である。30年前、当時の時給は1,200円。旨味もあったが、その分、厳しさも相当であった。仕事仲間には、生粋のフリーターから、学生、売れないミュージシャン、劇団員、パティシエ崩れ、資金稼ぎの起業家などなど様ざまな人がいて、年齢も10代〜50代と幅広かった。ある意味、人種のるつぼか、かの懐かしのアニメ番組 “アパッチ野球軍”のような有象無象の集団であった。ただ、誰もがウェイターのプロとしての意識を徹底的に叩き込まれており、みんな仕事ができる人だったことを覚えている。どんな局面でもミスやトラブルは許されないという空気があった。「給仕のプロなんだろ?正社員よりいい給料もらってんだろ?俺たちはただのバイトじゃないんだよ」そんな不文律さえあった。職場のホールでミスをすれば、先輩たちにメチャクチャ怒られて、しばらくはバックヤードでグラスや皿を磨かされる。仕事としては楽になるのだが、それは恥ずかしいこととされていた。決してお客さまに不便や不愉快を感じさせてはいけない。どんな状況でも。たとえ理不尽な客であったとしてもだ。私はこれがすべて正しいことだとは思ってはいない。このときに出会った嫌な客たちは、いま私の反面教師となっている。自分が社会人になって、レストランに行ったら、こんなうんこみたいな客にはなるまいと誓ったものだ。どうあれ、当時は「お客さまは神様」だった。今となっては、そんな環境のなかで、みんなよく仕事をしていたと思う・・・。先日、忘年会の二次会で行った居酒屋のホールスタッフ。20代と思しき彼はとことん無愛想で、オーダーしても返事をしない。おまけにキッチンにオーダーを通すのを忘れているらしく、なかなか料理が来ない。チッ、仕事のできないやつだな。そう思いながらも私は、このスタッフをつかまえて、ただ丁寧に催促しようとしたのだ。「すみません、注文したイカの一夜干し、通ってますか」って。あくまでもいい客でいようとした。酔っているときはなおさらだ。すると、このスタッフ、わたしの言葉を片手で遮って、他のスタッフとちがう話をはじめた。私は神様ではない。ただの客である。だとしても、この態度はねーわ。私のウェイターとしての経験が、この仕事のできない、うんこスタッフの接客を許してはいけないと脳に告げている。思いきり言ってやったさ「オイ、オマエ、フザケテンノカ?」・・・・・・・。どこがいい客だよ。

四流の流儀

面白い企画を考えるだけなら三流。その企画をカタチにするだけなら二流、カタチになったコンテンツで世の中を感動させることができたら一流。仕事人として目指すべき指標を尺度にした教訓だ。若い頃は、厳しい先輩たちによく聞かされたものだ。一流や二流になるためには、いろいろな人と関わりながら、説得したり、懐柔したり、駆け引きしたり、競争に勝ったりしなければならない。果てしなく遠い道のりである。それに比べて三流は面白い企画を考えるだけでいい。それだって決して簡単ではない。けれど、少なくても独りで解決することはできる。つまり、三流には自分に才能さえあれば(才能が無ければひたすら努力する)なれる可能性があるということだ。だから、若い頃は人知れず企画に没頭した。上司や先輩が帰ったあとの会社で、むさ苦しい休日のアパートで、独りになれば、何か面白いことがないかといつも考えていた。そうするとどんなポンコツでも、何かしらの企画にはなる。自分で考えた企画だから、どんなものでも可愛いくてしょうがない。そんなことを繰り返しているうちに、面白い企画の一つや二つは自然と生まれるようになるものだ。果たして今はどうだろう。他の会社のことはよく分からないが、私の会社にはもう三流になろうとする人間すら少なくなった。考えることを放棄する人間が多くなった。「石に齧りついてでも面白い企画を・・・」そんな気概はもはや天然記念物級と化した。今は、いかに自分の手と頭を動かさないで(時間と労力をかけず)「丸投げ」というスマートな働き方を決めるかが大事だったりする。そして会社もこれを推奨している。やがて、それが身体にこびりついて、自分の本業と勘違いするうんこ野郎ばかりが増えた。三流すら目指せない、四流の流儀が幅をきかせるようになった。悲しいことである。

あおり運転裁判に感じること

東名高速あおり運転裁判のニュースを見ていて感じることがあった。両親を失くした娘さんが悲痛な思いで語ったのは「注意しただけでそこまでキレる、怒ってしまうということが不思議だと思う・・・」確かにそうだろう。私は、この加害者はうんこみたいなやつで、生きる値打ちもない奴だと思っている。この国の司法制度の隙間を見つけてでも、できる限りの厳罰がくだることを望んでいる。ただ、なんとなくこのうんこ野郎が理解できてしまうのだ。共感ではなく、あくまでも理解だ。この事件はパーキングエリアで、被害者の父親が、うんこ野郎を注意することに端を発している。「邪魔だ、ボケ」。仮にうんこ野郎の言うことが真実だとすると、この注意のし方、ともすると言葉の選び方が原因だったことになる。こんなうんこ野郎だからクラクションを鳴らされただけでもキレたかもしれないし、穏やかな口調で「通してもらえますか」と言われただけでもキレていたかもしれない。それは、もう確かめようがない。うんこ野郎は「“邪魔だ”はいいけど“ボケ”にカチンときた」と証言している。これ、もし自分だったらどうだろう・・・。考えるまでもない、間違いなくキレている。その後、執拗に追いかけまわしたりはしないが、走り去る車に向かって中指を立てるくらいのことはするだろうし、その日は一日中ムカついてしょうがないと思う。ネット上の書き込みでは、加害者は彼女の前でカッコつけたかった、などとあるが全くの見当ちがいである。うんこ野郎は自尊心を大きく傷つけられたのだ。被害者である父親の注意のし方と「ボケ」という言葉によって自分を貶められたと感じたのだ。そんな自尊心、何の役にも立たないし持っているだけで危ういのにね。「言い方ってもんがあるだろうが!」これは私の理屈だが、根底には、その危うい自尊心がある。うんこ野郎と私の共通点は、くだらない自尊心を持っていることにある。劣等感を多く抱える人間が、自分の心の均衡を保つための「ツール」のようなものである。それを呆気なく傷つけられたのだから、そりゃ、キレるよ。そして「ケンカ売ってんのか?」になる。私がこのうんこ野郎を理解できるというのは、そういうことだ。ただ、その程度が、うんこ野郎はひどすぎた。それは娘さんの「そこまでキレるなんて」の「そこまで」によく表れている。もし、うんこ野郎が「何をイキってんだろうね、あのアホ」くらい言える気持ちに余裕のある人間だったら、こんな事件は起きなかった。彼女も惚れなおしていただろう。どのニュースやワイドショーを見ていても被害者である父親の注意のし方や言葉使いに言及することはない。世間に言わせれば、どっかのうんこ野郎がキレたせいで、尊い命が奪われたという事実に、酌量の余地はないのだ・・・。この一件、もう一つ理解できることがある。それは、この事件の発端になった、亡くなった父親の言動そのものである。自分も、きっと同じような注意のし方をしていたに違いない。決して、家族の前で頼もしく、強い父親を演じたいわけではない。家族を守りたいわけでもない。もしそうだとしたら真逆の行動をとっていただろう。「君子、危うきに近寄らず」が如く何もアクションしなかったはずである。要するにこの父親、子どもが同乗しているにも関わらず、そういう言動をしたがる性分であったということだ。直情的な人だったということだ。私も同じ傾向にあるから、よく分かる。この事件、私のダメさを彷彿することが多くて、ニュースを見ていても居心地が悪い。家内にも見透かされている気がする。まあ、何にせよ、被害者は死ぬ必要なんてまったくなかったのは、言うまでもない。

娘を連れて晩秋の山を登る

晩秋の休日、可愛い娘(愛犬)を連れて日帰り登山をした。正確に言うと、登山なんて大層なものではなく、ハイキングに近い。それでも全行程約10km、なかなかの急登もあり、3つの低山を縦走するコースは、運動不足の中年にとって歩きごたえ十分である。うちの娘は山が好きで、若い頃ならこの程度の山は平気で散歩したものだが、11歳(人間の年齢だと70歳超)ともなれば、そうはいかない。平坦な登山道だけ歩かせて、アップダウンのあるところは私のザックに入れている。私がほとんど背負って歩くことになる。7キロの娘を背負って山を歩くのは一苦労だが、ザックからちょこんと顔を出しているその姿はとても愛らしく、他の登山客に「かわいい」「おりこうさんね」なんて褒められたりすると親ばかよろしく、うれしくなってしまう。「写真を撮らせてください」なんてこともある。私としてはまんざらでもない。登山客のなかにはザックの中の娘の存在に気づいて、ギョッとする方もいる。「驚かせてしまってすみません」と私。すると「あービックリした、ぬいぐるみかと思ったわ」上品なマダムが物腰柔らかく言う。私は俄にマダムの言葉に違和感を覚えた。ぬいぐるみ・・・。いい歳のおっさんが、そこそこ大きな犬のぬいぐるみ持って山を登っている。自分のザックから、“ちょこん”とぬいぐるみの顔をのぞかせながら山を登っている・・・。そんなファンシーなおっさん、いますか?想像したら可笑しくなってしまった。「なわけねーだろ!」私はツッコミたい気持をグッとこらえ、マダムに愛想笑いを返していた。世の中にはいろいろな人がいるものだ。

臨床心理士になった友人のアドバイス

先日、臨床心理士の友人と飲んだ。この友人はもともと会社の同僚で、いまの私と同じような仕事をしていた。40歳を迎えようとした頃、突然会社を辞めて大学に再入学を果たし、心理学を学んだ。その後、大学院まで進み、卒業してから50歳で臨床心理士になったという異色の経歴の持ち主だ。因に女性である。彼女曰く、歳をとればとるほど他人に「隙」を見せるコミュニケーションが大切なのだそうだ。その方が他人から愛されると言うのだ。分からなくはない。確かにいつも眉間に皺を寄せて、重箱の隅をチクチク突いているような年寄りは、決して他人から好かれはしないだろう。年齢に関わらず、よく「可愛げのある人」のような表現をすることもあるが、こういう人は存在する。私の人生にもこういう「可愛げのある人」は確かに存在した。どこかに隙があり、何かにつけて周りからいじられる。いじられた彼らはというと、屈託のない笑顔を振りまきその場の空気を浄化させる。誰もが平和な気持ちになれる。そして、決して嫌われない。愛されキャラである。これは素晴らしい才能だと思う。彼らに共通して言えることは、バカじゃないということだ。むしろ頭がいい。ただのバカは嫌われるが、バカじゃない彼らは嫌われない。計算なのか、本能なのかは分からないが、彼らの才能は高度な技術にも思える。「オレにはできないって」私は友人に言った。そんな技術もないし、そもそも人に隙を見せないように生きてきた。仕事においては、そう教わってきたのだから。老化による物忘れとか動作の緩慢はあるにしても、この歳になって敢えて隙を見せる生き方はできない。別に愛されなくてもいい。ただ、少しだけ寛容になろうとは思う。人に対し、事象に対しもう少し穏やかに接することを心掛けよう。この臨床心理士の友人の言葉に感じたことである。かく言うこの友人も同僚の頃は「隙」を見せることで、可愛げのあるキャラクターとして認識されていた。少なくても他の同僚たちはそうだったはずだ。けれど私には彼女がそれを無理に演じているようにしか見えなかった。本当はいじられるのが嫌いなのに、甘んじて受入れているようにしか見えなかった。年齢をいじられる。スッピンであることをいじられる。結婚しないことをいじられる。無邪気さが生んだ歪んだコミュニケーション。今ならそれはそれでコンプライアンス上、大いに問題である。本来なら怒りや不快感を表したり、苦情を訴えても不思議ではないが、当時の彼女は大事にせず、そんな「いじり」を上手にかわしていた。実に頭のいい、勇気のある振る舞いである。それが周囲からは隙に見えていたのだろう。うん、分かるよ。君があの頃にしていた振る舞いは、他人から自分を守るために身につけた技術なんだよね。そして、そんなコミュニケーションに疲れたから別の生き方を選んだんだよね。この友人が会社を辞めた動機のすべてではないにせよ、一つの要因ではあった。私は口にこそ出さなかったけれど確信していた。私はこの友人を尊敬しているし、同世代の人間として誇らしく思っている。何よりも友人と呼べる数少ない人物である。その友人が10年の時を経て臨床心理士となり、この私に「隙」を見せるコミュニケーションを薦めてくることが、頼もしくもあり、ちょっと可笑しかったのである。

とあるクライアントの節度

いま、ある企業と仕事をしている。私の会社はこの企業の広告、宣伝業務を請け負っている。言わばクライアントと業者の関係である。私個人としては、約5年ぶりに担当をつとめる。この企業は電力、エネルギーをドメインとしていて、昨今の社会事情から言うと決して溌剌と商業経営に打ち込めるような雰囲気にはない。かわいそうだと思う。それはこの企業が私のクライアントだからではなく東日本大震災以降、この手の企業が十把一絡げで「ヒール」として取り沙汰されることに不条理を感じるからである。私はこの企業が好きだ。私がこの企業のことをどれほど理解しているのかは分からないが、業務を請け負うくらいに必要なことは知っているつもりだ。この企業のポリシーやテクノロジーCSRなど、感心させられることは山ほどある。これはあくまでも私の主観だが、とにかく生真面目で実直なのだ。チャラついた要素がひとつもない。それは「不器用ですから」とコマーシャルで語った高倉健さんの役者像にもどこか似ている。真面目で、企業としてのいいところはいっぱいあるのにエネルギーを扱う企業であるが故に、上手く自社をアピールができないところが健さんのそれとよく似ている。いくつもの企業と仕事をしてきたが、こんな企業は他に記憶がない。この企業、組織としても真面目なのだが担当者はこの企業にあってこの社員、というくらい真面目な人たちである。打ち合わせをしていても、奢ったところがない。謙虚でやはりどこか不器用さが漂っている。とある打ち合わせのときの担当者の反応が忘れられない。担当者は30代半ばと思われる女性である。この担当者、とにかく口数が少ない(この女性に限らずここの人たちは一概に寡黙である)。そして表情が乏しい。くだらない理屈をグイグイ押し付けてくるクライアントに慣れてしまっているので、つい、拍子抜けしてしまうくらいだ。私は彼女に向かって、こんなことを言った「御社の企業努力は本当に大したものですよ、それは誇っていいことだと思います。臆することなく世の中に知らしめていきましょう」と。それは決してお世辞ではなく、私の本心である。すると、彼女は俯き加減に少しだけ微笑んで、小さな声で「はい」と応えてくれた。なんか、いい光景だなと、思った。そこには自分の点数稼ぎや保身や狡さなんて微塵もない、外連味のない姿があった。自分の会社を想い、置かれている立場を憂いている。ある意味サラリーマンの鏡ではないか。「この人たちのために、いい仕事をしよう」改めて、そう思うのである。もう一つ気づいたことがある。このクライアントの人たちが寡黙なのは、私たちを信じていてくれるからである。要は「餅は餅屋」ということだ。ここに信頼関係が生まれる。人はついつい仕事に自分の痕跡を残したがるものだ。それは犬のマーキングのようなもので、やらないと気が済まない「犬のしょんべん」だ。仕事のできない奴が、仕事をした気にさせるまったく無意味な行為である。それをここのクライアントはしない。なかなかできることではない。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという概念は確実に存在するし、かなりめんどくさい

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ということわざがある。はじめから負の連鎖が確定しているという理不尽な概念だが、こういう概念に囚われて、どうしようもなくなるのが人間なのだと思う。とある記事では「パブロフの犬」を引用して「坊主憎けりゃ〜」を解説していた。条件反射、というわけである。まあ、そうなのだろう。仲間とのコミュニケーションに失敗する→次第に周りとの関係が険悪になる→何気ない行動でもことごとく悪意に受け取られる→ますます周りから疎外される。というものである。ちょっとわかりづらい。コミュニケーションに失敗し、自分が周囲から嫌われたり疎外されたりすることが前提となっている。だが決してそれだけではないと思う。だって、私にはコミュニケーションがなくても、自分が疎外されていなくても絶対的に嫌いな奴はいるし、そいつのやること、なすことのすべてを私の意志で全否定している。いずれにせよ、暮らしていてメンドクサイ。
私は人間に対しての好き嫌いが非常に激しい人間だ。とりわけ職場の人間についてはその傾向が顕著である。というか嫌いな人間がとても多い。普段コミュニケーションをとることは滅多になくても嫌いなやつがゴロゴロしている。いちばん身近にいる嫌いなやつは、私の席の斜め前で私に背中を向ける形で存在している。私がこいつを嫌いな理由を特記することはしないが、一言で言えば仕事ができると「カンチガイ」しているやつ。私が嫌いな人間のすべてに共通する点である。特徴としては、目立ちたがり屋、自己中心的、謙虚さを欠き、やたら声が大きい等がある。誰もがそうだと思うが、嫌いな人間の気配を感じながら生きるストレスは苦痛以外の何ものでもない。
座席のレイアウト上、私とこいつが在席していれば、否応なくこいつが私の視界に入ることになる。精神衛生上、先ずは速やかにこいつを私の視界から消さなければならない。「坊主憎けりゃ〜」論に話しを戻すと、私はこいつの容姿が嫌いである、顔立ち、体型が嫌いだ。そうすると着ている洋服もその配色も嫌いになる。文句のつけどころは山ほどある。ダサい、安っぽい、時代遅れ、センスがない、ビンボー臭い等々。どれも、こいつでなければ、そこまで反応することはないだろう。ただこれら視覚に訴えるファクトへの対処はカンタンで、ただ目をそらせばいい。もしくは近眼の人が焦点をあわせるときにするように、できるだけ目を細め、意図的に視界を狭くする。嫌いなやつを視界から消すと同時に、仕事に集中できる。しかし、聴覚に訴えかけるファクトは厄介である。こいつの会話だ。前述したように、こいつは、目立ちたがり屋で、声がでかく、謙虚さを欠いている。そんなやつの会話である。吐き気がするほど偉そうに物を言う。その声を聞くのがとても苦痛なのだ。殺してやりたいくらいムカつく。声質も、イントネーションも、相槌もみんなムカつく。再び「坊主憎けりゃ〜」論に話しを戻すと、会話だけではない。こいつが発する物音のすべてが嫌いである。お昼に食べる弁当の咀嚼音、こいつが歩くときの靴音、パソコンのキーボードを叩くときの音(勢いよくreturnキーを叩くときの音)が大嫌いである。これら聴覚に訴えかけるファクトもまた、私に苦痛を与えるのだ。もはや言いがかりとも思えるが、嫌いなものはし方がない。これが坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というやつなのだ。
私は、これら聴覚への攻撃に対しても早急に対策を講じる必要があった。聴覚攻撃は、視覚のそれに比べて受けるダメージが大きいということに気がついた。「耳にこびりつく」とはこういうことなのだ。嫌なものであればあるほど、後を引くしつこさがある。磨りガラスや黒板に爪を立てたときの音のようだ。私は、家内が友人から誕生日にプレゼントされたワイヤレスイヤホンの存在を思い出した。ピンクのカラーがいかにも女性らしく、50代のオッサンが利用するにはあまりにも滑稽だが、聴覚攻撃から逃れられるなら、見てくれはどうでもよかった。ワイヤレスイヤホンの効果は絶大で、会社では欠かすことのできないアイテムとなった。
因にこいつへの「坊主憎けりゃ〜」現象がはじまったのは、つい最近のことだ。それまでこいつには仕事もなく、一日中漫画を読んでいるだけの存在だった。だから気にはならなかった。けれど、ちょっと仕事を任されるようになって、俄に自分の存在をアピールするようになってから鬱陶しさが際立つようになった。いまや何もかもが気に入らないし、大嫌いである。はぁ、メンドクサイ。
でも、ちょっと気づいたことがある。こいつの席の近くにいる同僚たちのイヤホン使用率がものすごく高いのだ。観察してみると、こいつが誰かと電話しはじめると、そそくさとイヤホンを装着している。どうやらこいつを嫌いなのは私だけではなさそうだ。ただうるさいからなのか、「坊主憎けりゃ〜」の概念が働いているのかは、いまのところ確かめようがない。何はともあれ、今日も私は目を細め、ピンクのイヤホンを装着しながら仕事をしています。

平日の映画鑑賞

8月のとある平日。出社しても特にやる事がなさそうだったので、有給休暇をとって映画を観に行くことにした。たまにやる。平日昼間の映画館が大好きだ。人が少ないのがいい。他の観客は少なければ少ないほどいい。だから、この日も敢えて朝イチの上映を目がけて行くことにする。映画に限ったことではないが、平日の昼間から遊ぶのは格別である。

 

案の定、映画館は空いていた。私がよく行く映画館はいわゆるシネコンで、複数のタイトルが上映されている複合映画館である。同時刻に上映される他の映画にもそれほど観客は集まっていない。施設そのものが閑散としていた。さすが朝イチだ。

 

上映開始時刻の20分前に開場となり、私は着席し、くつろいでいた。周りには、わたしの右隣、三つ向こうの席に30代と思しき男性が一人、前列中央にいかにも客筋のいい二人連れのマダムがいるだけだ。少しでも観やすい席を確保しようとするのは観賞者の常である。スクリーンに向かって中段真ん中の席はそれだけ競争率も高い。にもかかわらず、この人口密度。すかすかな状態。実にいい。

 

配給会社からのお知らせと、映画の予告がはじまり、私は本編のはじまりを待っていた。本編がはじまる前のこの時間も好きだ。次に観賞する映画を物色することができるから。というか、編集が上手だよね。どれもこれも面白そうにみえる。興行的にも貢献していると思うし、本篇がはじまる前に観客をスクリーンに集中させる効果もあるのだろう。

 

私もいい感じで集中し、本編の上映を待っていた。すると徐に入口の扉が開き4、5人の集団が劇場に入ってくるのが見えた。中学生だ。そう、いまは夏休み。中学生が映画を観にきてもおかしくはない。だが朝イチからは計算外だった。健全な中学生だったら、まだ寝てる時間じゃないのか?夏休みって夜更かしするもんだろ。しかも野郎ばかりだ。一気に気持ちがざわつく。

 

「こっちに来るな」と、全力の念を送る。しかし私の念も虚しく、中学生たちは後列、私の真後ろに陣取った。「もう、最悪」中学生はうるさかった。ひっきりなしにポップコーンを貪り、ドリンクを啜り、よく喋った。それは、本編がはじまっても止むことはなかった。ポップコーンとドリンクはまだ許せる。守られるお前らの権利だ。映画館が推奨しているのだから、文句のつけようがない。ただ、おしゃべりだけは、ガマンならない。

 

まったく映画に集中できやしない。本編がはじまって10分ほどが経過した頃、中学生のおしゃべりが一段とエスカレートしたそのとき、私は振り向きざまに「お前ら、調子こいて喋ってんじゃねーぞ」とやさしく叱った。言い方!まあ、咄嗟に出たコトバなんでしょうがない。おかしかったのは、同じ列に座っていた30代の男性が「お前らうるさいんだよ」と私のコトバに被せてきたことだ。あっ、ぜったい、乗っかってきたよね、キミ。

 

その後、中学生たちは大人しくなり、ほとんど喋ることはなかった。ちょっと待てよ。言い過ぎたかな。もしかしたら、いい子たちなのかもしれない。友だちどうしで、はしゃいじゃったのかな。夏休みに、野郎仲間と朝イチに映画を観に行く。私にはない発想だけど、これを世間では微笑ましいというのではないか?ヤバい、余計気になって映画に集中できない。

 

そんなこんなで、映画は終了した。エンドロールがはじまると中学生たちはそそくさと劇場を出ていった。「嫌な気持ちにさせてしまったかな」エンドロールが終わり、劇場が明るくなる。私は中学生たちの座っていた席を見た。そこにはドロドロに汚れたシートと床があった。ぶちまけられたドリンクとポップコーン。容器もそのまま放置されていた。

 

「くそガキが!」一瞬でもお前らに同情したのが胸くそ悪いわ。今の若い奴は・・・なんて、言える立場ではない。私もさんざん言われてきたから。ただ、最低限守らなきゃいけないモラルとかルールとか、暗黙の了解みたいなものは確かにあったんだ。若い奴らだけじゃない。今はじじいもおかしくなってる。そういう自分も含めてね。最近、怒りすぎだわ。世代の問題ではない、時代の問題なんだね、きっと。