街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

「ありがとう」の代わりに用いられる「すみません」の違和感

「すみません」とは、つくづく便利な言葉だ。

本来は何らかの自分の過失を償うときの言葉だと思うのだが

様々な用途とシチュエーションで重宝されている。

飲食店で店員さんを呼びとめるときの「すみません」

満員電車から降車するとき人をかきわけて「すみません」

他人と出会い頭でぶつかりそうになったときの「すみません」

みんな普段の暮らしの中で条件反射のように「すみません」を

使っているのではないだろうか。

決して間違いではないしコミュニケーションとしては成立しているのだと思う。

「すみません」とは、正しくはその相手に対して

何らかの代償が済んでいないことの意思表示らしいのだが

そんなことを気にして使っている人はいないだろう。

それは、それでいい。思いが伝わっているのなら、それでいい。

けれど、そんな「すみません」の中で私が唯一気になっているのが

「ありがとう」の代わりの「すみません」だ。この「すみません」も実に多用されている。

例えばエレベーターで目的のフロアに到着したとき入口付近にいる私は「開」ポタンを押しながら

他の人が降りるのを待っている。すると大体の人が「すみません」と言いながら

エレベーターを降りていく。

または人がやっと一人通れるような細い歩道を歩いていると

反対側から乳母車を押した主婦がやってくる。

私は歩道の端っこで身体をよじらせながら主婦が通り過ぎるのを待つ。

するとこの主婦は「すみません」と言ってすれ違っていく。

どちらの場合も悪い気はしない。

何も言わないで当たり前の顔をして

エレベーターを降りたり、歩道の真ん中を闊歩したりする輩とは明らかに性質が違う。

とても好感が持てるし良心的である。

私としては、謝ってもらうようなことをされたわけではないので

逆に「すみません」なんて言ってもらって「すみません」みたいな気持ちになってしまう。

仮に、この良心的な人びとの「すみません」が感謝の意味で使われているのなら

(おそらくそうなのだが)

やっぱりそこは「ありがとうございます」なんだと思う。

こちらも「どういたしまして」と素直に反応しやすい。

なんとなく「すみません」より「ありがとう」の方が、言った方も、言われた方も

より気持ちよくなれるような気がする。そういうコミュニケーションなのだと思う。

けれど照れか、謙遜か、人びとの何らかの自意識がそうさせるのか、ほとんどの人は「すみません」派だ。

もちろん、私はこの種の「ありがとう」は実装済みだ。

もともと私も「すみません」派だったが、意識的に習慣化し「ありがとう」派に定着した

以前、親しい知り合いに言われたことがある。

“たろさんの「ありがとう」って、とてもスマートですよね”・・・どうやら、そういうことらしい。


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