街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

母の日に想う、母親への「感謝」と父親への「憐憫」

母の日に、父を想う。

母に対して多少の後ろめたさはあるが

私の場合、母への「感謝」と父への「憐憫」は表裏だ。

父は、私が子どもの頃から家にいない人だった。

だからといって寂しいと感じたこともなかったし、それが当たりまえだと思っていた。

何かをいっしょにした、という記憶もあまり残っていない。

家にいる時、たまにキャッチボールをしてくれることがあったが

楽しかったというより、どちらかというと面倒くさかったことを覚えている。

私は明らかに父に人見知りしていた。

 

私が13歳のとき、両親は離婚した。

この時も寂しいという感情は一切なかった。

どちらかというと冷めた目で両親の成り行きを見ていた。

「苗字かわるの、やだな・・・」

私は三人兄弟の長男で、歳の離れた弟が二人いる。

弟たちには父の記憶というものがほとんどない。

彼らが成長過程で父親(像)に何を感じてきたのかは分からない。

少なくても私の場合は養育費もろくに払わない父を軽蔑はしたが

父がいなくて寂しいと感じたり、父と息子の情緒的な関係を

恋しいと思ったことはその後の人生で一度もない。

母への最大の「感謝」は女手一つで三人の息子を育ててくれた事に対してではない。

父親がいない寂しさや不自由さを私たちに感じさせないで育ててくれた事に対してだ。

 

やがて父との音信は途絶え、そして20年近い月日が流れた。

私は31歳になり、二人の弟も成人していた。

そんなある日突然、父の親戚から連絡がある。

父が肝臓ガンを患い入院している。もう長くないから面会に来てほしいと言う。

親戚の話によると、父の余命は半年を切っていた。

母に相談すると「私はもう他人だから行かないけど

あなたたちは血を分けた親子なんだから行ってきなさい」との事。

私は、すぐ下の弟を連れて父に会いに行くことにした。

 

父は病院のベッドで横になり、宙を見つめていた。

声をかけると父は自ら上半身を起こし、私たちをベッドの傍らの丸イスに座るよう促した。

「大丈夫?」と私。「ああ」と父。案外と元気そうだ。

久しぶりの父との再開は感動的、などというものではなく

実に素っ気ないものだった。期待していたわけではないが

正直、「こんなものか」と思う。それは父の態度にではなく私自身の感情に対してだ。

私たちは父の病状や、それぞれの近況について語りあった。それは長い父子の時間を埋めるには

あまりにも短い時間だったが、お互いの現状を知る上では充分な時間だった。

父の晩年はあまりにも孤独だった。

父への「憐憫」とは家族と上手に付き合えなかったという事に対してだ。

もちろん、それは父の自業自得ではある。父のせいで、みんなが苦労した。

けれど、父もまたコミュニケーションが得意な人ではなかったのだと思う。

生きづらい人だったのだと思う。皮肉なものだが、そんな人だったからこそ

母の奇跡的な子育てがあったとも言える。

 

結局、この面会が父との最後になった。その3ヶ月後に父は死んだ。64歳だった。

私は、私が父の存在を消して生きてきた(母の子育てのおかげで)ように

父もまた子どもたちの存在を消して生きたのだと思っていたのだが

それは私の誤解だったようだ。

後日、父の僅かばかりの遺品を整理していると使い込まれた

ボロボロのビジネス手帳が出てきた。おもむろに表紙をめくってみる。

するとそこにあったのは、力強い父の字で書かれた

私たち兄弟3人のフルネームとそれぞれの生年月日だった。

 

終始父の話になってしまった感があるが

あくまでも主役は私たちを必死の思いで育ててくれた母である。

そんな母は今日も元気に生きている。

あらためて感謝します。「ありがとう」


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