街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

映画『ロンドン、人生はじめます』を観て“なりすまし友だち”を考える

映画を観てきた。

ダイアン・キートン主演の『ロンドン、人生はじめます』。

実話に基づいた、ロマンティック・ラブドラマである。

ここでは映画そのものの感想について詳しく言及しないが

まあまあ良い映画だったと思う。あらすじは下記のとおり。

ロンドン郊外の高級マンションで暮らす主人公エミリーは夫の死後

様々な問題に直面し、日々を悪戦苦闘していた。そんなある日

ホームレスの男性と出会い、本来の自分を取り戻していく・・・。

この映画の中で主人公は、同じマンションに住むミセスたちと

ご近所付き合いをしているのだが、そのミセスたちの親分格のマダム

との人間関係がちょっと面白い。

マダムは主人公を友だちと呼び、様々なコミュニティ活動に

勧誘するのだが、主人公はその人間関係にげんなりしている。

けれど、生きていくため便宜上マダムの友だちを受入れている。

この関係が面白かったのは、一見マダムが一方的に主人公を

友だちと思い込んでいるように見えるのだが、実はそうじゃない。

マダムもまた、主人公を友だちとは、思っていない事だ。

自分の活動に役立つから、友だちとして身近に置いておきたかっただけだ。

要は、お互いに友だちではない他人を、友だちとして付き合っている。

“なりすまし友だち”なのだ。

いまさら、友だちを定義するつもりはない。

無理矢理定義しようとするメディアや

人もいるにはいるがナンセンスだと思っている。

友だちの解釈なんて人それぞれでいいと思うし、その時々で変化してもいいと思う。

(というか当然そうなると思っている。)

だから私にとっては友だちだけど、相手は知人としか思っていない

という事も起こりうる。

前者にしてみればショックな事なのかもしれないが

後者の解釈を否定する事はだれにもできない。

食べ物の好き嫌いが人によって違うように、友だちの解釈も

人によって違うものである。
けれど、世の中には、この映画の登場人物のように

友だちになりすますことで、コミュニケーションを円滑にしたり

自分が暮らしやすいように仕向けたりするケースがある。

こんな関係に心当たりのある人は案外多いのではないだろうか。

なりすましの友達関係には打算が働いていることが多い。

それは、相手にとっても自分にとってもも言えることだ。

もし、そのコミュニケーションに不自由がないのなら

逆に居心地の良さを感じているのなら

なりすまし友達の関係を清算する必要はないと思う。

社会生活には、むしろ絶対に必要な気もする。


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