街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

歩きスマホの人にぶつかりそうになって、家内にこっぴどく叱られる

歩きスマホの人に故意にぶつかってケガをさせたり

金品を要求したりする「当たり屋」が増えているという。

昨年も兵庫でスマホをしていた女性が体当たりされて

重傷を負ったという事件があった。

歩きスマホそのものが社会問題になって久しいが

「当たり屋」はまた別の問題で、別の迷惑である。

確かに歩きスマホの人が、自分の動線上にいたら頭にくる。

急いでいる時なんか本当にイライラする。

だからといって、わざとぶつかりに行くのは、どういう心理なのだろう。

ちょっと考察してみる。

当たり屋には、金銭目当てと、金銭目当てではない2種類がある。

金銭目当ての「当たり屋」は、ぶつかって損害賠償金や示談金を要求するが

金銭目当てではない「当たり屋」はそうではない。

実は、最初から、相手を傷つけようと思ってぶつかるのでもない。

このタイプには、歪んだ正義感というか、倫理観があって

それを自分のルールに置き換えて事に及んでいたりする。

その思考のプロセスは例えばこうである・・・

歩きスマホは社会の迷惑。

よって、歩きスマホをしている人は悪である。

だから、ちょっと懲らしめてやれ。

ぶつかったとしても、それは相手が悪い。

そんな感覚ではないだろうか。

自分が悪いことをしているという自覚は少ないのではないか。

ぶつかった相手にケガをさせてしまって

はじめて事の大きさに気づいたりする。

歩きスマホの「当たり屋」を擁護したり指示するつもりは毛頭ないが

こういう人たちの心理がちょっと分かる気もするのだ。

それは、先日家内と外食をともにした帰りの出来事である。

私たちが地下鉄のコンコースを歩いていると

正面から歩きスマホをしている若いサラリーマンらしき人がやってきた。

そんなに広い通路ではないが、身体を避けられないことはない。

けれど、このままお互いが直進すれば

間違いなく肩がぶつかる間合いである。

本当は、自分が数歩横に移動すればいいのだ。

もしくは口があるのだから、言葉で注意を促せばいいだけだ。

「失礼します」とか「通ります」とか

当たり障りのない言い方で、相手に気づいてもらえばいいのだ。

私は30メートル手前からサラリーマンを認識しているが

相手は全く私に気づいていない。スマホに夢中である。

恐ろしい事に、この時の私の思考は先述した

「当たり屋」のそれとほぼ同じだった。

お酒が入っていたことも、その思考に拍車をかけていたのかもしれない。

20メートル、15メートル、10メートル・・・。

何でこいつのために自分が道を譲らなければならないのか。

ぶつかっちゃうけど、歩きスマホしてる方が悪いから仕方ないよね。

あぁ、ぶつかっちゃうな・・・。

その瞬間、家内が私の肘を抱えて、自分の方へ私の身体を引き寄せた。

家内の機転によって、衝突は回避されたのである。

若いサラリーマンはようやく目の前の私たちの存在に気づき

「あっ、すみません」と言って、すれ違っていった。

歩きスマホが迷惑行為であることは事実だが

そんな人たちへの対処の仕方で、まったく違う結末になることも確かだ。

私が「当たり屋」になってしまうかもしれなかった。

ケガをさせてしまう可能性もあった。

これには猛省である。

故意の衝突は論外だが、過失であっても罪に問われる可能性もある。

どちらにとっても不幸な出来事である。

日本には、歩きスマホそのものを規制する法律はまだない。

そんな法律ができることが、本当にいいとも思わない。

モラルという一言で済ませるのは簡単だが

スマホを使用することにおいて、周囲の人との関係とか距離感とか状況を

みんなが考えられる、成熟した社会になればいいと思うのだ。

「危険に巻き込まれないため」とか「面倒くさい事を避けたい」とか

「家族が路頭に迷うかもしれない」とか。

そんな自分本位な考え方でもいいと思う。

それもまた、コミュニケーションなのだ。

ちなみに家内はこの時「気をつけてよ!」ではなく

「もう、やめてよ!」と言って、めちゃめちゃ怒った。

家内は、私の危うい思考をお見通しだったということだ。

それは、それで恐ろしいと思った。


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