街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

臨床心理士になった友人のアドバイス

先日、臨床心理士の友人と飲んだ。この友人はもともと会社の同僚で、いまの私と同じような仕事をしていた。40歳を迎えようとした頃、突然会社を辞めて大学に再入学を果たし、心理学を学んだ。その後、大学院まで進み、卒業してから50歳で臨床心理士になったという異色の経歴の持ち主だ。因に女性である。彼女曰く、歳をとればとるほど他人に「隙」を見せるコミュニケーションが大切なのだそうだ。その方が他人から愛されると言うのだ。分からなくはない。確かにいつも眉間に皺を寄せて、重箱の隅をチクチク突いているような年寄りは、決して他人から好かれはしないだろう。年齢に関わらず、よく「可愛げのある人」のような表現をすることもあるが、こういう人は存在する。私の人生にもこういう「可愛げのある人」は確かに存在した。どこかに隙があり、何かにつけて周りからいじられる。いじられた彼らはというと、屈託のない笑顔を振りまきその場の空気を浄化させる。誰もが平和な気持ちになれる。そして、決して嫌われない。愛されキャラである。これは素晴らしい才能だと思う。彼らに共通して言えることは、バカじゃないということだ。むしろ頭がいい。ただのバカは嫌われるが、バカじゃない彼らは嫌われない。計算なのか、本能なのかは分からないが、彼らの才能は高度な技術にも思える。「オレにはできないって」私は友人に言った。そんな技術もないし、そもそも人に隙を見せないように生きてきた。仕事においては、そう教わってきたのだから。老化による物忘れとか動作の緩慢はあるにしても、この歳になって敢えて隙を見せる生き方はできない。別に愛されなくてもいい。ただ、少しだけ寛容になろうとは思う。人に対し、事象に対しもう少し穏やかに接することを心掛けよう。この臨床心理士の友人の言葉に感じたことである。かく言うこの友人も同僚の頃は「隙」を見せることで、可愛げのあるキャラクターとして認識されていた。少なくても他の同僚たちはそうだったはずだ。けれど私には彼女がそれを無理に演じているようにしか見えなかった。本当はいじられるのが嫌いなのに、甘んじて受入れているようにしか見えなかった。年齢をいじられる。スッピンであることをいじられる。結婚しないことをいじられる。無邪気さが生んだ歪んだコミュニケーション。今ならそれはそれでコンプライアンス上、大いに問題である。本来なら怒りや不快感を表したり、苦情を訴えても不思議ではないが、当時の彼女は大事にせず、そんな「いじり」を上手にかわしていた。実に頭のいい、勇気のある振る舞いである。それが周囲からは隙に見えていたのだろう。うん、分かるよ。君があの頃にしていた振る舞いは、他人から自分を守るために身につけた技術なんだよね。そして、そんなコミュニケーションに疲れたから別の生き方を選んだんだよね。この友人が会社を辞めた動機のすべてではないにせよ、一つの要因ではあった。私は口にこそ出さなかったけれど確信していた。私はこの友人を尊敬しているし、同世代の人間として誇らしく思っている。何よりも友人と呼べる数少ない人物である。その友人が10年の時を経て臨床心理士となり、この私に「隙」を見せるコミュニケーションを薦めてくることが、頼もしくもあり、ちょっと可笑しかったのである。