街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

あおり運転裁判に感じること

東名高速あおり運転裁判のニュースを見ていて感じることがあった。両親を失くした娘さんが悲痛な思いで語ったのは「注意しただけでそこまでキレる、怒ってしまうということが不思議だと思う・・・」確かにそうだろう。私は、この加害者はうんこみたいなやつで、生きる値打ちもない奴だと思っている。この国の司法制度の隙間を見つけてでも、できる限りの厳罰がくだることを望んでいる。ただ、なんとなくこのうんこ野郎が理解できてしまうのだ。共感ではなく、あくまでも理解だ。この事件はパーキングエリアで、被害者の父親が、うんこ野郎を注意することに端を発している。「邪魔だ、ボケ」。仮にうんこ野郎の言うことが真実だとすると、この注意のし方、ともすると言葉の選び方が原因だったことになる。こんなうんこ野郎だからクラクションを鳴らされただけでもキレたかもしれないし、穏やかな口調で「通してもらえますか」と言われただけでもキレていたかもしれない。それは、もう確かめようがない。うんこ野郎は「“邪魔だ”はいいけど“ボケ”にカチンときた」と証言している。これ、もし自分だったらどうだろう・・・。考えるまでもない、間違いなくキレている。その後、執拗に追いかけまわしたりはしないが、走り去る車に向かって中指を立てるくらいのことはするだろうし、その日は一日中ムカついてしょうがないと思う。ネット上の書き込みでは、加害者は彼女の前でカッコつけたかった、などとあるが全くの見当ちがいである。うんこ野郎は自尊心を大きく傷つけられたのだ。被害者である父親の注意のし方と「ボケ」という言葉によって自分を貶められたと感じたのだ。そんな自尊心、何の役にも立たないし持っているだけで危ういのにね。「言い方ってもんがあるだろうが!」これは私の理屈だが、根底には、その危うい自尊心がある。うんこ野郎と私の共通点は、くだらない自尊心を持っていることにある。劣等感を多く抱える人間が、自分の心の均衡を保つための「ツール」のようなものである。それを呆気なく傷つけられたのだから、そりゃ、キレるよ。そして「ケンカ売ってんのか?」になる。私がこのうんこ野郎を理解できるというのは、そういうことだ。ただ、その程度が、うんこ野郎はひどすぎた。それは娘さんの「そこまでキレるなんて」の「そこまで」によく表れている。もし、うんこ野郎が「何をイキってんだろうね、あのアホ」くらい言える気持ちに余裕のある人間だったら、こんな事件は起きなかった。彼女も惚れなおしていただろう。どのニュースやワイドショーを見ていても被害者である父親の注意のし方や言葉使いに言及することはない。世間に言わせれば、どっかのうんこ野郎がキレたせいで、尊い命が奪われたという事実に、酌量の余地はないのだ・・・。この一件、もう一つ理解できることがある。それは、この事件の発端になった、亡くなった父親の言動そのものである。自分も、きっと同じような注意のし方をしていたに違いない。決して、家族の前で頼もしく、強い父親を演じたいわけではない。家族を守りたいわけでもない。もしそうだとしたら真逆の行動をとっていただろう。「君子、危うきに近寄らず」が如く何もアクションしなかったはずである。要するにこの父親、子どもが同乗しているにも関わらず、そういう言動をしたがる性分であったということだ。直情的な人だったということだ。私も同じ傾向にあるから、よく分かる。この事件、私のダメさを彷彿することが多くて、ニュースを見ていても居心地が悪い。家内にも見透かされている気がする。まあ、何にせよ、被害者は死ぬ必要なんてまったくなかったのは、言うまでもない。