街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

謝るアスリート

試合に負けたり、結果が出せなかったとき、謝るアスリートがいる。先日行われた全国都道府県対抗駅伝でも、優勝こそかなわなかったものの、3位とか、4位とか、わりと上位でフィニッシュしたチームのアンカーの選手が、手を合わせて「ごめんなさい」と拝むようにゴールテープをきっている姿を目にした。こうした、アスリートの謝るという行為を、とりわけ私たち日本人はときどき見かけることがある。その献身的な姿は感動ものでもあり、時に痛々しい。「みんなの期待に応えられなくて、ごめんなさい」「チームに迷惑のかかるプレーをしてごめんなさい」「大事なところでミスしてごめんなさい」。そんなアスリートたちの行為に対して、私たちはちっぽけな老婆心から “あなたたちは十分よくやった。だから謝る必要なんてないよ”なんて感情を抱いたりすることも多い。なかには“見ているこちらが辛くなっちゃうからやめてほしい”と感じる人もいるだろう。私はちょっと違うような気がする。敗れたアスリートに対して「せめて」謝ることを許してあげたい、と思うのだ。それは、彼らの「権利」だから。そもそも試合に負けて謝るのって、すべてのアスリートに認められることではないはず。プロとかアマチュアとか、そういうレベルの話しではない。置かれた環境下にあって人一倍の努力とトレーニングを積んで、勝負できるだけの戦闘力(スキル)を身につけ、周囲から勝利や活躍を期待されるアスリートである。早い話、大いにがんばった人たち。負けて謝るという行為は、その過程において、大いにがんばったアスリートにのみ与えられる権利と言ってもいいだろう。だから、「せめて」謝ることを認めてあげたいと思う。彼らがそうすることで、多少でも、アスリートとしての尊厳を保てるのならそれでいいと思う(これがいちばんデカい)。まあ、前提として、試合に負けて謝るアスリートたちは何ひとつ悪いことをしていない。同じ謝るのでも「謝罪」まみれの世の中に慣れてしまった私のような人間には、計り知れない感覚であることは間違いない。