街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

田舎の友人が語る「東京暮らし」に違和感を覚える

ここ数年、年末年始の休暇を東京で過ごす、田舎の友人がいる。友人とは言っても、最近はとくに親しい付き合いがあるわけではなく、SNS上でのつながりしかない。なので、彼が上京したということも、彼が投稿した記事で知ることになる。彼は夫婦で上京し、約一週間の滞在中に都内を中心に観光し、やがて田舎に帰っていく。ただそれだけのこと。彼の投稿にはその行程が事細かく書かれている。私にとっては、彼がどこに行こうが、何をしようが、何を食べようが、まったくもってどうでもいい話しだ。彼がただ機嫌よく旅をしているなら「へぇ、よかったねぇ」と無表情で済ませることができるのだ。しかし、彼が投稿する記事には、私の心をざわつかせる書き様がいくつか見受けられる。その記事の書き出しには「今年もお正月は夫婦で東京暮らしをしてきました」とある。トウキョウグラシ?たかだか一週間ほどの滞在に「暮らす」というコトバを用いるセンスってどうなんだろう。厳密に言えば、この使い方は間違いではないらしい。「暮らす」を辞書で調べると“一日一日を過ごしていくこと”とある。経済活動、衣・食・住を伴う「生活する」よりも概念としては広義である。そこに、滞在日数や滞在目的などは、加味されないということだろう。それだけ曖昧なコトバなのだ。私はこれまで(これからも)「暮らす」=「生活する」という解釈をしてきたために、腑に落ちないのかもしれない。どうしてこのコトバを選んだのだろうか。「旅行しました」や「訪ねました」じゃだめなのだろうか。一つ言えるのは、彼は意図的にこの「暮らす」を使っているということだ。滞在目的を、ただの観光としていないふしがある。社会学習とでも言いたいのだろうか・・・。まあ、私がどう思おうと、決して間違いじゃないし、彼が「東京暮らし」をしていると言うなら、それはしょうがない。けれども私の感じる違和感には、その続きがある。彼は記事の最後で『東京雑感』と題して、滞在中の体験から得た感想を総括している。その中に「東京の人はかわいそう、高いお金を払わないと美味しいご飯が食べられない」だとか「田舎の水に比べると、東京の水は臭くて飲めない」とか、そんなことが書かれていた。これは去年の記事にあったのだが、多少の炎上があったのか、記事はしばらくすると削除されていた。私もこの記事には閉口した。私はこれ、東京を落としているのではなく、東京で生活している人を落としているのだと思った。私だって、基本的には田舎者だし、東京が特別すきなわけでもない。ましてや東京在住を奢るわけでもない。けれど、それこそ「東京に暮らして」30年以上になる。だから少しは言わせて欲しい、「なめんなよ」と。たかだか一年に一度の上京で、一週間そこそこの滞在で何が分かるのか。私の心が、彼の用いる「東京暮らし」にざわつくのは、こういう書き様に起因しているのである。ガセネタもいいとこだし、無神経である。もしも彼が、彼の地元の食材を、旅行者に「不味い」と言われたら、どんな気持になるのだろう。「よくこんな料理食べられるよね」って言われたらどう思うのだろう・・・。ちなみに、今年の記事にはこうあった。「東京の水が去年よりましになった。そのおかけで、ホテルや飲食店の食事も美味しくなった。技術の進歩ってすごい」だって・・・。なに言ってるの?ときに彼は地方創生、地域の活性化をテーマに様々なNPO活動に取り組んでいて、ゆくゆくは地元のリーダーを目指しているそうだ。ぜったいムリだろ。