街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

何かとサラリーマンを主張するクライアント

 身も心も蹂躙された仕事だった。すべての業務を終えたいま、 この忌まわしい仕事のいきさつを、 半ば放心状態で振り返っているのだが、印象的だったのは、 クライアントの口から再三にわたって発せられた一つのフレーズで ある。「ワタシもサラリーマンなので・・・」。 本当によく聞いた。 今回のクライアントは社内から選抜されたプロジェクトチームで、 役員を筆頭に、4、5人の事務方で成っている。みな、 人間としては悪くはないのだが、 仕事の相手となると最悪な人びとで、 それを象徴していたのがこの「ワタシもサラリーマンなので・・・ 」というフレーズだった。このフレーズの存在は、 とっくに知っているし、はじめて聞いたわけではない。けれど、 私にとってそれは、絶滅寸前のコトバ(とくに危惧はしていない) 、あるいは死語に近いという認識だった。 それほどに久しぶりに聞いた。

 

昔でこそ“サラリーマン”を悲哀の対象とみるきらいもあったが、 私はその概念をいささか楽観視している。それは、 企業や組織に庇護されながら仕事ができるから。「 やりたいことを自由にやればいいじゃん」 ということに他ならない。私は“サラリーマン” をそう解釈している。 多少のミスがあってもクビになることはないし、 死活問題にもならない。腹さえ括れば、 こんなにステキな立場はない。 もちろん世の中にはそんな解釈が通用しないブラックが数多く存在 していることは承知しているが、 最近このフレーズを聞くことがなかったので、 私のような解釈ができる環境が増えたのだろうと勝手に思い込んで いた。

 

けれど、どうやら現実は違っているようだ。 クライアントが言うところの“サラリーマン”には、 どうにもならないという諦めがあり、 カーストに囚われた無力さがある。 自由なんてこれっぽっちも感じない。 昔と何も変わっていないじゃぁないか。「 ワタシもサラリーマンなので・・・」。 そのフレーズをクライアントから聞かされる度に、 同じサラリーマンとしては、悲しくもあり「 もっとサラリーマンの気骨、見せてみろや」と怒りも湧いてくる。 たとえば、「本日は、A案とB案の2種類のデザインをご用意しま した。我々のおすすめはAです」と私。すると事務方の一人が「 私もA案がいいと思うのですが、上がなんと言うか・・・ ワタシもサラリーマンなので、一存では決めかねます」とか「私は A案が良かったのですが、上がB案と申しております。 ワタシもサラリーマンなので、従わざるを得ません」とか。 決して「上と掛け合って、A案を通してきます」とはならない。 すべてがこの調子だった。 プロジェクトチームのほとんどの人間が、 このフレーズを使っていた。チームのトップである役員までもが「 社長に言われたら仕方ないよ。ワタシもサラリーマンなのでね」。 これにはさすがに驚かされた。誰も自分じゃ決められないから、 仕事は滞り、オンスケジュールを保つのも一苦労した・・・。

 

と、ここまでさんざん毒づいてみたものの、「 オメーはちゃんとできてんのかよ」と自問自答してみる。「はい、 できてません」。即答です。企業のなかで自分らしく、 自由に仕事するなんて、なかなかできることじゃないですよね。 私の“サラリーマン”への解釈は、 そうありたいという私の切なる願望であり、 クライアントへの怒りは、ただの同族嫌悪だということだ。ただ、 私は意地でも使わないけどね。「ワタシもサラリーマンなので・・ ・」というフレーズ、こんな惨めなフレーズ。サラリーマンが、 こんな風にサラリーマンを主張しだしたら、もう終わりだよ。