街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

阿呆なコメントを思い出したら、ムカついてきた

去年のこと。とあるテレビ番組で、芸人を都内の遊園地の檻に入れて衆目に晒す企画を行ったところ、想定外の群衆が殺到し、収拾がつかなくなるというハプニングがあり問題となった。近隣住民の方々は、さぞや面食らったことでしょう。この件について私は、同じ日本人として、こういう行動は考えものだし、悲しく思うという趣旨の投稿をしたところ、間もなく投稿に対し次のようなコメントがされていた。〝あたかもすべての日本人がそうであるような印象を受けるので、この件で「日本人」という言葉を使わないでくれ〟というもの。つまり、そんな有象無象といっしょにするなと言いたいのだろう・・・。どこのどいつか知らんけど、阿呆なやつがいるものだ。文脈も汲み取れないような阿呆に偉そうに言われたくないのだよ。それに、番組を企画したスタッフも、件の群衆のほとんども、(おそらく)この阿呆なコメント主も、記事を書いた私も日本人なんだよ。現実なんだよ。それを「日本人」という言葉を使わないでくれとは、ずいぶん横柄で差別的ではないだろうか。それとも、この阿呆なコメント主は全くもって非の打ち所もない人間だけを「日本人」と認めることにしているのだろうか。さぞや日本人であることに誇りを持って生きているのでしょうね。こういう勘違いのナショナリズムが大嫌いである。私も日本人であり、この国を愛している。どちらかといえば右寄りで愛している。けれど、誇りとかって、民族や人種や国籍、イデオロギーを超えて、人間の個そのものにあるのだと思う。個の行動や思想に宿るものだと思う。日本人であるというたけで、クソみたいな自意識を満たし、こんなくだらないコメントを寄越す阿呆には到底分からないだろうけどね。自分を高めてからものを言ってもらいたい。声を大にして言うよ、オメーみたいなやつがこの国をダメにすんだよ。