街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

ときどき、想うひと (一)豊川さん

大学の現役受験に失敗した私は、 半ば絶望しながら途方に暮れていた。 母子家庭の我が家に予備校に通えるほどの余裕はなく、 かといって独学で一年間の浪人生活を送る自信もなかった。 そんな私が選択したのは地元を離れて就職するということだった。 当時の私は、予備校にも通えず、 進学を諦める自分が負け犬のような気がしていたので、 とりあえず、 自分を知る人のいない土地へ逃げたかったのだと思う。 そして地元の職安に通い、5月に入って間もなく神奈川の平塚にあ る運送会社に事務職を見つけ、就職を決めたのだった。 世の中の同い年の多くが夢と希望に満ちた新生活を始めようとして いるとき、私は運送会社の独身寮に、 野良猫のような悲壮感をまといながら転がり込むことになったのだ 。会社の独身寮の住人のほとんどはトラックの運転手で、20代か ら50代と年齢層こそバラバラなものの、 みんな昔はやんちゃしてたと思わせるような人々だった。私は「 豊川さん」という40代半ばの青森は八戸出身の人と相部屋になっ た。豊川さんは中学を卒業するとすぐに上京し、 職を転々としながらこの運送会社に流れ着いたそうで、 トラック運転手が全国から運んできた貨物や荷物の仕分けをする作 業員だった。人の良い、気さくな人だったが、 少し発達障害のようなところがあって、 独身寮の一部の住人から悪質ないじられ方をすることがあった。 そんなとき豊川さんはいつも抵抗するわけでもなく「 しょうがねぇなぁ」と強がりを見せて その場をやり過ごしていた。同じ東北出身ということもあり、 豊川さんは私の面倒をよくみてくれた。 おかげで仕事や寮生活に早く慣れることができたし、入社から3カ 月もする頃には当初の悲壮感も影を潜め「 こんな暮らしも悪くないな」と、 居心地の良さすら感じるようになっていた。 とある休日の昼下がり、豊川さんがパーマをかけてきた。 前髪をつくり、 緩やかにサイドウェーブさせ、赤茶色に染められたそれは、 昭和の不良アイドル沖田浩之を彷彿とさせた。「 まったく似合わねぇ」。私は明らかに失敗だと思ったが、 おばさんパーマを見事に再現しているという点では成功と言えるか もしれない。豊川さんは箔をつけたかったのだ。 おばさんパーマは、 日頃いじられていることへの小さな反抗だということは 容易に想像できた。 おばさんパーマという新しい武器を手に入れた豊川さんは満足そう だったが、すぐに悲劇を生むことなる。その日の夜、 寮の廊下で豊川さんのおばさんパーマを見つけた寮の住人がそれを いじり始めたのだ。「なんだよ?そのパーマ、おばさんじゃんww w」豊川さんの顔がみるみる赤くなる。そして、 寮の住人がおばさんパーマに触ろうとしたとき豊川さんがついにキ レた。「ざけんじゃねーぞ!この野郎!!」 豊川さんが寮の住人に掴みかかると、殴り合いの喧嘩が始まった。 決着はあっという間についた。 私はボコボコにされた豊川さんに肩を貸しながら部屋へと戻ると、 タオルを濡らし豊川さんの顔にそっと当てた。 顔を腫らした豊川さんの虚ろな目に悔し涙が浮かんでいた。 顔を背けるように「ありがとね」とつぶやくように言うと、 こう続けた。「お前さ、やりたいことあんだろ」「だったら、 こんな所にいちゃいけないんだよ」。豊川さんはそれ以上、 何も言わなかった。この言葉は、私を1年で運送会社を辞めさせ、 貯めた金を使って進学予備校に通わせるきっかけとなった。 背中を押してもらったなんて、そんなきれいなものではない。 私がこの言葉に感じたのは、虚しさとか息苦しさであって、 決して前向きなものではなかった。その瞬間、 私は目の前に横たわる豊川さんに自分を重ねていたのだと思う。「 弱いな、俺って」・・・。ともあれ、 私の人生の転機になったことは間違いないだろう。その後、 私は予備校から大学へと進学し今へと至るのだが豊川さんと連絡を 取り合うことは一度もなかった。あれから30数年、 豊川さんが生きていれば、80歳に近いはずだ。 とっくに現役は退いているだろう。豊川さん、 あれからこの世の中は、少しは優しくしてくれましたか。 めんどくさくて、生きづらい世の中だけど、 私はもう少しがんばりますよ。豊川さん。 薫風の季節になると思い出すひと。