街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

年度末の儀式。上司と後輩のやりとり

年度末がやってきた。 コロナに翻弄された今年度はまともに仕事をした感覚があまりない のだが、確実に時は過ぎていて、この会社で一年間やってきた( と思われる)仕事は、 評価や査定という形でスタッフに跳ね返ってくる。 どんな状況下であっても、この「儀式」は変わらず執り行われる。

 

幸か不幸か私はこの儀式の反対側、 つまり誰かを評価したり査定したりする会社側の立場に立ったこと がない。無理くりであろうがエビデンスを示し、人に優劣をつけ、 次年度へ向けてアドバイスを施す。 それを自分が管理するすべての部下に行うなんて、 考えるだけでゾッとする。30年もこんな儀式に参加して、 そのカラクリとか、組織の事情なんてものを分かってしまうと、 もう自分への値踏みに対して一喜一憂することはなくなってしまっ た。しかし、私のように「儀式慣れ」していなくて、 しかも評価の良くなかったスタッフは、真剣に悩んだり、 落ち込んだりするものだ。

 

私はスタッフを評価する会社側の立場にはないが、 会社から評価を受けたスタッフに相談される立場にはある。 先日も査定面談を終えたばかりの後輩スタッフから電話があった。 会社が下した自分への評価に納得がいかない後輩は、 興奮気味に上司との面談の様子を教えてくれる。こういう評価で、 こんなことを言われました、どう思いますか? 後輩の話はほとんどが想定内だったので、私の経験値で、 後輩のプライドを損なうことなく、対処することができたが、 考えさせられたのは上司が彼に言った「こだわらないで仕事して」 という一言だった。

 

マネジメントの立場からすれば、「効率よく仕事して」 ということなのだろうが、制作者として、 表現にこだわりながら仕事に取り組んできた後輩にしてみれば、 こだわらない=手を抜くとか、テキトーに、 という風に聞こえたのかもしれない。もっともな話だ。 私が上司だったら「効率よくこだわって仕事をして」 と言うだろう。そもそもこの上司はなぜ「効率よく」を「 こだわらないで」にコトバを変換したのだろうか。 残業時間を減らしてほしいなら、そう言えばいい、 担当業務の件数を増やしてほしいなら、そう言えばいい。 上司としては、後輩にプレッシャーをかけないように、 こういう直接的な言い方を敢えて避けたのかもしれない。 だとしたら相当ズレていると思う。「効率」と「こだわり」 は一見、真逆な概念にも思えるが、 この2つは両立できることを私は知っている。裏を返せば、 時間をかけさえすれば、いい仕事ができるわけではない、 ということだ。だからこそ「こだわらないで」 なんてコトバはぜったいに使わない。「効率」と「こだわり」 は別物なのだから。

 

こんなことを電話口で考えること約1秒。 私は後輩にその上司のコトバがいかにナンセンスであるかを説明し た。迂闊で、鈍感で、無神経。あまりにもお粗末な儀式である。