街角のコミュニケーション日記

世の中コミュニケーションだらけ。

『竹原ピストル』のライブに感じる熱さと心地良さ。

竹原ピストルのライブは魂を焦がすほど熱いのだが、やたらと心地が良い。

竹原の謙虚な人間性、清濁の歌声、人の本質を詠った楽曲、チャーミングなMC。

そのすべてが成せる業だと思う。

そして居心地の良さを感じるもう一つの要因は、ライブの「客筋」である。

もちろん同じアーティストを観にきているのだから、ちょっとした連帯感はある。

けれどそれだけではない。

観客の平均年齢は有に40歳を超えているだろう。

年齢の近さから感じる親近感もある。

けれどそれだけでもない。なんとなく人間味があるのだ。人間臭いというのだろうか。

「みんな、生きてりゃ、いろいろあるよね」と労りたくなる感じ。

だからといって、うなだれているのではなく上を向いて生きている感じ。

普通の人より体温が高い感じ。

そんな一見、鬱陶しいオーディエンスの存在がまた心地良いのだ。

きっと、これもアーティストの竹原が、そういう人間を呼び寄せるのだろう。

いい歳のオヤジの唄を、いい歳のオヤジとオバサンが聴いてボロ泣きしている。

そんな光景をまったく知らない人が目の当たりにしたら、びっくりするに違いない。

ライブが終わると、目を赤く腫らした中年たちが会場を後にする。

これも異様である。けれど、私を含めた当の本人たちは

実に心地の良い読後感を抱きなから家路につくことができるのだ・・・。

 

本文とは関係ないけれど、私の大好きな竹原の曲「カウント10」の一節である。

ぼくは「人生、勝ち負けなんてないんだ」という人の人生に

心を動かされたことは、一度たりとも、無い。

うん、ホントその通り。

人生はいつも、勝ち負けの連続だからね。

最近は負けっぱなしだけど。


人気ブログランキング


生き方ランキング

映画『万引き家族』のレビューをみて感じたこと。

映画『万引き家族』を観た。

あくまでも個人的な感想であり、ネタバレもほぼありません。

言わずもがな、今年度カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した

是枝裕和監督の最新作である。

映画というよりかは、ドキュメンタリー映像を観ているようで

かといって、映画としてのディテールを放棄しているわけではなく

緊張感を保ちながらエンターテインメント作品として楽しめた。

自然であり等身大。これこそ是枝演出の真骨頂といったところではないだろうか。

演じきった役者陣はみな素晴らしかった。

とくに役者デビューして間もない二人の子役は、実にこの作品にハマっていたし

二人の演技は、パルムドール獲得にも大きく貢献したのだろう。

 

この映画については、すでに多くのレビューがアップされているが

その中でちょっと気になるものを見つけた。

それは「リアリティに欠ける」というものだ。

「だって映画なんだからさぁ」と思うのと同時に

こういうレビューあげる人は、ちょっと視点が違っているような気がするのだ・・・。

 

この映画は『万引き家族』というタイトルにあるように

「家族」がテーマであって「貧困」や「虐待」がテーマではない。

一見キーワードに思える「万引き」も劇中の家族の性格を

粒立たせるためのプロットの一つに過ぎない。

これを見誤ると「悲惨さが嘘くさい」だの「貧しさに現実味がない」

というレビューになってしまう。

世の中には、先日の「目黒虐待事件」のように悲惨で、貧しい家族の

事例なんて山ほどあるわけで、リアルを超える描写などあり得ない。

この映画を観るならそれを織り込み済みで観るべきである。

 

この映画は悲惨と貧困をドラマチックに描いて

共感を得ようなんて最初から期待はしていないのだ。

期待しているのは、観客一人ひとりが自分の中にある「家族像」と劇中の家族を

照らし合わせることだ。

そうして、戸籍とか法律とか常識を超えたところで

「これは家族ですか」「これでも家族ですか」「これではどうですか」

という具合にストーリーの展開ごとに問題定義してくる。

是枝作品らしく、そこに答えはない。

答えは観客一人ひとりが導き出さなければならない。

狙いは、すごくシンプルなのだと思う。

製作者が意図していないことを指摘している方こそリアリティがない。


最後に、『万引き家族』を是枝監督の別作品『誰も知らない』と

比較している人もいるが、比べているところはやっぱりリアリティと

貧しさと悲惨さの描写についてである。

本来この二つの映画はテーマがまったく違うので、比べること自体がナンセンスだと思う。

もちろん、単純に「好き嫌い」では比べられるのだけれど・・・。

いずれにせよ、どちらも良い映画であることに変わりはない。

だから、私はどちらも「好き」である。


人気ブログランキング


生き方ランキング

髪を切った時にみる周囲の反応いろいろ

どうでもいいことだけど、髪を切った。大胆に切った。

私はどちらかと言えば「ロン毛」の部類であったが

それを突然のベリーショートにしたのだ。特に理由はない。色気も何もない。

本格的な夏を間近に控え、こざっぱりしたかっただけである。

ただ、それだけの話しなのだが、周囲の反応に感じるところがあった。

 

ケースその1「似合ってますよ」

これには私も悪い気はしないので、「ありがとう」と素直に言える。

会話自体もこれで事足りるので、余計な気を使わないで済むのだ。

私はこの手のやり取りはほとんど、社交辞令の一種だと思っている。

もはや挨拶代わりと言ってもいい。

誰もおじさんの髪型の変化に関心があるわけではないだろうし

こんな話題は早く済ませるに越したことはないのだ。

 

ケースその2「前の方が良かったですよ」

これにはちょっと困る。どうリアクションしていいものか悩む。

こんなとき私は「そうかなぁ」と言ってお茶を濁しているが

だいたい髪の毛を切ったばかりの人に向かって

前の髪型が良かったと言うのはどういうことなのだろう。

すぐに生えてくるとでも思っているのか。まったく会話に発展性がない。

私としては軽く凹むし

私が不機嫌になるリスクを背負ってまで、言うことだろうか。

繰り返すが、これは社交辞令の一種である。

とりあえず「似合う」と言えばいいではないか。

 

ケースその3「どうしたんですか?」

この反応がいちばん困るかもしれない。

私はその都度、髪を切った理由を説明しなければならない

それが大した理由ではなくてもだ。

「夏だからさ、ちょっとさっぱりしたいと思ってさ・・・」

これで引き下がってくれればいいのだが、こういう人は次の会話を用意している。

「それにしても短くしましたね」と続く。話しが長引くタイプである。

「もう、いじるのやめてくれ」と言いたい。この会話、続けて面白いですか。

 

ケースその4「・・・・・・」

つまり、無反応。正確に言えば、意識的に反応しない

これは無関心とは違う。

あえて、その話題に触れないようにしようとしている。

私は、ある意味いちばん賢い反応ではないかと思っている。

下手な感想を言って地雷を踏むこともないし(私は地雷を踏んだことがある)

私に余計な気を使わせることもない。

無反応な人の中には、こんな人もいる。

きっと私が、誰かと同じようなやり取りをさんざんしているだろうから

あえて、そこに触れないでおこうという人。

そういう配慮ができる人は、素晴らしい思う。

いずれにせよ、こんなコミュニケーションは日常では良くあること

そして、どちらの立場にもなる可能性がある。

私は、ケースその4が居心地いいと思うのだが、正解は一つではない。

髪を切ったことに注目してほしい人もいれば、理由を聞いてほしい人もいる。だから

相手の人間性や立場、自分との関係性に配慮しながら対処すればいい。

そうして生まれたコミュニケーションこそが正解である。

少なくとも、髪型を変えたぐらいのことで、誰かが傷ついたり

誰かが迷惑を被ったりすることだけは避けたい。

自分へも、強く言い聞かせたいと思う。


人気ブログランキング


生き方ランキング

「目黒虐待死」人生のなかで一番悲しい、結愛ちゃんの書いた文章

もう・・・

言いたいことは山ほどある。

言いたいやつは山ほどいる。

 

ふ、ざ、け、ん、な!

クズ継父、どうせ、弱者にしかできないんだろ。サイテーだよ、お前。なあ、収監されてリンチでもされたら?子ども殺しには、容赦ないらしいから。母親、あんた弱すぎだろ。あんなクズな男を頼りにして生きなきゃいけないなんて。子育てできないんなら、自分の子どもを守ってやれないんなら・・・もう、その時点で畜生以下だけど。頼むから、産まないでくれよ。もし母親の魂が一分でも残っているのなら、その非道を一生背負って生きろ。日本の児童相談所、何回、同じことを繰り返すのか、同じ過ちを繰り返すのか。権限も拡大して、警察との連携もとれるはずなのに何でやらない。本当に危機意識が欠如しているとしか思えない。真剣に取り組んでないでしょ。人の命を軽んじているようにしか思えない。日本の行政、厚労省も同罪だよ。いつまで無策なのか。制度を見直せよ。ガイドラインつくれよ。子を思う親の愛とかに頼っているのか?性善説を信じているのか?日本の政治家たち、もう、もり・かけ問題とかいいから、こういう問題取り上げてほしい。こういうこと議論してほしい。そして、社会と周りの大人たち、もっと関心を持てないのだろうか。またすぐに忘れてしまうのか。そのときの事件の一つで終わらせてしまうのか・・・。

 

 ・・・もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします・・・

・・・あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったい 

   ぜったいやらないからね わかったね・・・

 

などと綴られた「反省文」なるもの。

 切なすぎて、辛すぎて、胸が苦しくなる。

クズな親に書かされたものであったとしてもだ。

私の人生のなかで見てきたどの文章よりも悲しい。

本当は、読みたくない、辛すぎて。

でも、読まなくてはいけないのだと思う。

これは、この子が社会と、私たち大人に残したメッセージに思えてならない。

この事件を風化させないために、いつまでたってもなくならない児童虐待へ衆目を集めるために。

特に、いま、小さな子どもに虐待を繰り返してる奴らに読ませたい。

文章を読んで、それでも心を揺さぶられないなら、そいつらは、真に畜生にも劣る。

私たち大人は、この悲しいメッセージを受けとめなければいけない。

覚えていなければならない。

そうでないと、この子があまりにも浮かばれないから。

 

最後に、天国の結愛ちゃんへ。

遊ぶのは、ぜんぜんあほなことじゃないから、そっちでいっぱい遊んでね。

あと、世の中の大人の一人として言わせてね。

君を守ってあげられなくて、本当にごめんね。

 


人気ブログランキング


生き方ランキング

思いがけず小さな「命」をプレゼントされたときに感じた戸惑いと責任

「ベタ」という熱帯魚がいる。

見た目にも美しく、比較的飼育しやすいことから古くから重宝され

昨今でも人気の高い観賞魚の一種である。

私はこのベタを一瞬だけ飼っていたことがある。本当に一瞬なのだが・・・。

ベタは友人から誕生日のプレゼントとしていただいたものだ。

うん、確かに美しい。美しいのだが、どうすればいいのだろう。

観賞魚とはいえ、生き物、つまり一つの「命」だ。

これはかなりのプレッシャーだ。正直な話し、うまく飼育する自信がない。

我が家では、私の負のオーラがそうさせるのか

観葉植物一つ育ったためしがない。

丈夫が取り柄のサボテンですら枯らしてしまう。

愛犬が10年間も元気でいることは、ある意味奇跡だと思っている。

私の中に小さな使命感が生まれた。

「何が何でも、死なせてはならない」

きっと、友人はことある毎に聞いてくるはずだ。「ベタは元気?」

そのときに「死んじゃった」ではシャレにならない。

ベタの寿命は3〜5年らしいので、せめて3年は生きていてもらわないと

カッコがつかない。友人に顔向けができないではないか。

私は直ちにベタと、ベタの飼育に関する知識をネットからかき集め

必要最低限の器具を揃え、飼育環境を整えた。

水槽はプレゼント時に一緒にいただいた直径15センチメートル

高さ25センチメートルほどある円柱形の透明のビンである。

まずこのビンの置き場を確保することにした。

愛犬がじゃれてビンを倒したりできないよう、ある程度の高さが必要だ。

まさかとは思うがベタを捕食しないとも限らない。

テレビ台の高さがちょうどよく、スペースも確保できそうだった。

テレビの横なら、目線も合う。

番組と番組の合間に箸休め的にベタを観賞することもできる。

場所は決まった。次に用意するものはビンの入口を塞ぐ「フタ」になるものだ。

ベタにはいくつかの特徴があって、その一つに脅威のジャンプ力がある。

水面から20センチメートルくらいの高さまでジャンプするので 

ビンを飛び出してしまう。これには100円ショップで購入した

格子状に型取られたプラスチック製のパネルで対応した。

格子が空気穴にもなり、強度的にも問題はなさそうだ。

このパネルをビンの入口の大きさに合わせ適当な大きさにカットし

念のためそれまでビンが置かれる場所に鎮座していた

置物の小さなこけしをウエイト替わりにした。

あとは水温のコントロールである。

ベタは熱帯魚であり低水温には弱いという性質を持っている。

そこで購入したのが「パネルヒーター」だ。

ビンの下に敷き、水を温める装置である。

季節は冬、このパネルヒーターは常時稼働させる必要があった。

そうして、ベタのいる暮らしがはじまったのだ。

最初はベタそのものに関心もなく

その小さな「命」を守るという使命感でしかなかったのだが

飼い始めるとやはり情が移り、愛おしい存在になる。

とても人懐っこい性質で、ビンに顔を近づけると

美しい尾ヒレをひらひらさせながらこちらに寄ってくる。

「かわいい」

1日1回のエサやりも日課になった。

季節は冬から春へ、そして初夏を向かえた頃ベタと私の関係は良好だった。

ベタは元気だったし、私はベタのいる暮らしを楽しんでいた。

すっかり家族の一員として機能していたその矢先

ベタが死んだ。突然死んだ。

朝起きて、いつものようにエサを与えようとすると、もう動かなかった。

何が原因かは分からないが、さすがに凹んだし、悲しかった・・・。

ちょうど1年前、今くらいの時期である。

約半年間続いたベタとの暮らしはこうして終わった。

振り返ってみると、私はベタをプレゼントされたときから

「命への責任」を負ったのである。

当時感じたプレッシャーの正体はこの「責任」に他ならない。

友人に他意はない。もちろん私に責任を感じさせようなどと考えるわけもなく

ただただ美しい観賞魚を私にプレゼントして喜んで欲しかったのだと思う。

実際、ベタのいた半年間は楽しかったのだ。

だから、友人には今でも感謝している。本当にありがとう。

一方で、預かった「命」を全うさせてあげられなかった、という思いもある。

それは、友人にもベタにもだ。

私には生き物を誰かにプレゼントする、という発想はない。

相手がそれをどうしても欲しがっているとしたら話しは別だが、基本的にはない。

たとえそれが観賞魚や、クワガタのような昆虫の類であっても命は命である。

それを誰かに託すことは、気が引けるのである。

私が感じた責任や悲しみを、誰かが味わうのだと思うと、いたたまれない。

私はそう思うのだが、どうだろう。それとも、もっと軽く考えてもいいのだろうか。

・・・うーん、分からん。

後日、ベタの死を友人に報告した。

その友人は「えー!そうなんだ」と驚いた様子ではあったが

決して悲しそうではなかった。


人気ブログランキング


生き方ランキング

ウチのかわいい娘は、いろいろな事を教えてくれる。

私には10歳になる娘がいる。

親バカを承知で言わせてもらえば

とても気立てが良く、美形にして、誰からも愛される娘である。

いっしょに街を歩けば、誰もが娘に注目し「わぁ、かわいい!」と

思わず声にしてしまう。たとえ声にしなくとも

娘を見るやさしい目が、それを物語っている。

どこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘なのである。

 

娘の名前は「ハンナ」

キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル「犬」である。

犬が苦手だという方、犬が嫌いだという方は眉間に皺を寄せるだろう。

でも、ご安心ください。

こんな書き方をすると、私を狂信的な愛犬家だと思うかもしれないが

決してそうではありませんから

私はハンナを愛し、実の娘のように思っているが

それはあくまでも内向き、つまり家庭内に限った話しであって

社会の中ではきちんと「ヒューマン ファースト」を心がけながら

責任あるオーナーに徹している。

家の中では「お父さん」だが、外に出れば「飼い主」となるのだ。

私はハンナと暮らすようになってから、勘違いの甚だしい飼い主をたくさん見てきたが

そういう人たちとは違うと自負している。

そんな飼い主の勘違いや、歪んだ愛情は社会ではトラブルの原因になる。

私は決してハンナをトラブルに巻き込みたくないし

社会の迷惑や、敵にはしたくない。だから私自身が、飼い主としてのルールを守り

慎ましく、でも堂々と「犬のいる暮らし」を楽しんでいる。

こんな風に考えられるようになったのも、ハンナの存在があるからだ。

彼女といろいろなことを経験したからだ。

 

ハンナは私に多くのことを教えてくれた。

価値、感情、社会性、それは目に見えないものがほとんどだが

すべてが私の財産となった。

たとえば、「無償の愛」という言葉があるが、ハンナと暮らすまでは

まったくピンとこなかった。というか、そんなものこの世にはないと思っていた。

(実の親のそれともまた違うのだが)

ハンナは私が仕事に出かけるときは、玄関まで見送ってくれるし

私が帰宅したときは、全力で出迎えてくれる。

「お仕事ご苦労さま!」「寂しかったんだから!」と目で訴える。

そうして、大きく尻尾を振って、抱っこをおねだりし、顔を舐めてくれる。

これはもう儀式のようなもので、大袈裟ではなく年中無休でこれをやる。

決して、下心や打算はない。

犬のこういう行為を「うっとおしい」と言う人もいるらしいが

私にとっては、とても幸せな、かけがえのないひと時なのである。

会社から持ち帰ったストレスは、一気に吹き飛び、それはそれは癒されるのだ。

時々思う。もしハンナと出会っていなかったら

私はこの10年の間に、精神疾患で入院していたか

犯罪者として刑務所に収監されていたか

何もかも失ってホームレスになっていたことだろう。

私はハンナの「無償の愛」のおかげでギリギリ今を保てるのだ。

 

他人への「寛容」を教えてくれたのもハンナである。

彼女を迎えて2年ほど経ったある休日の事

私もハンナもすっかり、散歩のお作法も身につけていた頃の話しだ。

私と家内はハンナを連れて、近所を散歩していた。

散歩のときはいつもお散歩バッグを持参する。

バッグには、彼女のウンチを拾うためのティッシュ、それを入れるためのビニール袋

道路をきれいにするための水が入ったペットボトル(オシッコも流す)が入っている。

ハンナはもちろんウンチもオシッコもするので

散歩時には欠かすことのできないアイテムだ。

飼い主の責任を果たすためのアイテムでもある。

お散歩コースの歩道は、広すぎず、狭すぎず

犬一匹を散歩させるのに、何の問題もない歩道である。

それでも歩行者の迷惑にならないよう、できるだけ端を歩かせる。

前方に対向者(おばさん)の姿を確認

私は、ハンナのリードをさらにたぐり寄せる。

その時、ハンナがウンチをした。

何度も言うが、歩道の真ん中でしたわけではない。

端っこで、お行儀よく、生理現象をこなしたに過ぎない。

私は対向者のおばさんのジャマにならないように

お散歩バッグのアイテムを駆使してウンチを片付けていた。

すると、このおばさんが、すれ違いざまにこう言い放った。

「わぁ、汚いもの見ちゃった」

嫌悪感丸出しで、私たちに聞こえるように言い放ちやがった。

一瞬で頭に血がのぼった私。反射的に声が出た「あ?」

そこまで言われなければならないのか?

そう思ったとしても、心の中に止められないのか?

わざわざ声に出して言うことなのか?

いつもなら怒りの感情に任せて

「お前のウ◯コの方が、百万倍汚いわ!」

怒鳴りつけているところだ。

けれど、視界の端にハンナが映った。

私のただならぬ様子を察し、心配そうにこちらを見つめている。

「お父さん、怒らないで」って、言っているような気がした。。。

気持ちがスッと鎮まり、我に返る。

これは、愛犬家と嫌犬家(けんけんか?)がたまたま道端で遭遇しただけの話しであって

世の中には、こういう人もいるということだ。

今でもハンナが教えてくれたのだと思っている。

最悪のトラブルは避けられた。

このおばさんがどうして犬を嫌うのかは分からない。

ルールを守らない飼い主の愚行が原因かもしれない。現にそんなデータもあるらしい。

愛犬家にも、嫌犬家にも愚行を働く人はいるが

おばさんの言動は明らかに嫌犬家の愚行であると思う。

けれど私はそれを許すことができた、かわいい娘のために寛容になれたのだ。

この出来事は、私に飼い主の責任を強く意識させるきっかけになった。

「愛犬家として愚行は、働くまい」

そして、他人との間合いの難しさを、改めて思い知らされる出来事でもあった。 


人気ブログランキング


生き方ランキング

子どもがギャン泣きするバスの車内での出来事

「子どもは泣くのが仕事」とはよく言ったものだ。

子どもは泣く。時と場所を選ばずに泣く。そう、仕事なのだからしょうがない。

けれども、いつまでも泣き止まない子どもを見ると

何がそんなに悲しいの?と思いたくもなる。

日々の暮らしの中で、そんなシーンに出くわすことも度々である。

お腹がすいた? どっか痛い? 抱っこしてほしいの? 

オムツが汚れてるの? おじさんが怖いの?

言葉が話せるくらい大きくなった子どもであれば

コミュニケーションの一つもとれるだろう。

しかし、泣くことでしか自分の置かれた状況や、切なる要求を表現できない小さな子どもには

確かめようもない。それでも、子どもを観察し、ちょっとした手がかりを探り出し

我が子のギャン泣きに何らかの対応を施し、泣き止ませている親御さんには

いつも感心させられるのだ。それは親としての経験値なのか、テレパシーなのか

本能というやつなのかは、子育てをしたことのない私にはよく分からない。

いずれにせよ、かなりのスキルだと思う。

だがそんな能力者のような親御さんにでも、どうにもならない時もある。

どうしても泣き止んでくれない我が子を前に途方にくれてしまうこともある。

先日、外出先で出会った親子もそうだった。。。

 

私は路線バスに乗っていた。週末の夕方である。

自宅近くのバス停から、終点の最寄り駅まで、4つの停留所。通常であれば20分の道のりだ。

その親子は私が乗った次のバス停からの乗客だった。

20代と思しきママがベビーカーを押して車内に乗り込んで来た。

ベビーカーには1歳くらいの可愛らしい女の子が、ちょこんと納まっている。

私は最後部の座席のセンターからその様子を見るともなしに見ていた。

車内の乗客は30人ほどいただろうか、座席はほぼ埋まっている。

ママ座れるかな?と一瞬思ったが、降車口付近に1人掛けの空席を見つけたママは

ベビーカーを座席の脇に、ストッパーで固定させ着席することができた。

私とベビーカーの間の通路には他の乗客も荷物もなく、自然と対峙する形になった。

その距離は3メートルくらいだろうか。

やがてバスは幹線道路に入ったところで渋滞にハマった。

週末の夕方、ある程度予想はしていたが、その日は特にひどかった。

ぜんぜん動かない!歩道の通行人が気持ちよくバスを追い抜いていく。

車内の空気が重くなっていくのがわかる。

誰もがこのどうしようもない状況にイラついていた。

やり場のない怒りは、乗客を無口に変え、車内は静まり返った。

最近のバスは停止時にアイドリングをしないため、静寂が際立つ。

私がバスに乗って30分、バスはまだ半分の道程にあった。

いつもならとっくに着いてるのに!私もイラついていた。

すると車内の静寂に一つの変化が起きた。

ベビーカーの女の子がぐずりだしたのである。

ママは懸命に我が子をあやしていたが、一向に機嫌は良くならない。

機嫌が良くなるどころか、女の子はベビーカーの中で身悶えしながら泣き始めた。

オモチャを渡しても、おやつを食べさせようとしても

泣き止むことはなく、それはギャン泣きとなった。

ママは席を立って抱っこしようとするも

「危ないですから立たないでください」と運転手に制される。

「動いてないんだからいいじゃん!」乗客のみんなが思ったはずだ。

車内の空気はさらに重苦しくなった。子どもの泣き声に支配された乗客たち。

寝たふりを決め込む者、窓の外を眺め現実逃避する者

露骨にイヤホンを取り出す者とそのリアクションは様々だが

明らかに「苦痛」を感じていた。その一部始終を私は見ていた。

(ハイ、私だって「苦痛」を感じていた乗客の1人です。それは認めます)

そして、何よりも理由は分からないけど車内で一番「苦痛」を感じていた(であろう)

女の子を見ていたのだ。

私は半ば投げやりな気持ちでこの女の子に手を振ってみることにした。

すると女の子が一瞬泣き止んだのである。

「えっ、何」って顔をしている。でも女の子はまたすぐに泣き出す。

私はさっきよりちょっと大きく手を振る。するとまた女の子が泣き止む。

そしてまた泣く。それ以降、私の手振りは通用することなく

結局女の子は終点まで泣き続けたのだ。

終点まではほぼ1時間かかった。

女の子は30分間泣き続けたことになる。さぞ、疲れた事だろう。お疲れさまでした。

ママも乗客のみなさんもお疲れさまでした、私も疲れました。。。

 

バスを降りるとき、女の子のママが私に向かって会釈してくれたのには、救われた。

ママの良心に触れた気がして、ちょっとほっこりしたのだ。

別に私のしたことが特別な行為だとは思わないし

感謝してもらうつもりでしたことでもない。ただ、この出来事で感じたのは

昔は子どもが公共の場で泣いていたりすると、必ず「お嬢ちゃん、どうしたの?」とか

「ボク、いい子だねぇ」とか言って、あやしてくれる大人が周りにいたものだが

そういう人がいなくなりつつあるということだ。

他人の子どもと接点を持とうとすることが異常視される時代

だということも理解できるけれど、なんか寂しい。。。

「子どもは泣くのが仕事」

そういえば、最近は聞かなくなった気がする。

それはきっと、泣いている子どもをきちんと受けとめられる社会が

無くなりつつあるからなのかもしれない。


人気ブログランキング


生き方ランキング

『サラリーマン川柳コンクール』30年超の歴史で変わったものと変わらないもの

先日『サラリーマン川柳コンクール』のベスト10が発表された。

第一生命保険が主催するこのコンクールは、今年で31回を数える。

「毎年、楽しみにしています!」というほど

このコンクールに思い入れはないのだけれど

毎年必ずといっていいほどニュースでとりあげられるので

ついつい見てしまう。社会の風物詩の感さえ漂う。


作品は伝統的に、社会と世相を取り入れた自虐ネタとナンセンスを扱うものが多い。

人の幸せと常識は、なかなか作品としては評価されづらいものだ。

もちろん、世相としての「ネタ」は毎年変わるのだが

作品の基本構造は、昔から変わっていない。

評価する一般大衆の評価基軸も変わっていないと思う。


今年の1位の作品は

『スポーツジム 車で行って チャリをこぐ』

昨今の健康志向とその矛盾のナンセンスをネタにしている。

腹を抱えて笑うほどではないが、クスッとさせられる。

いわゆる「あるある」が上手く表現されている。

今年、私が支持した作品はというと

『効率化 進めて気づく 俺が無駄』

職場の効率化をすすめる中間管理職の悲哀を自虐で表現。

全体の4位にランクされた作品だ。

うん、上手いものだ・・・。


思わずハッとした。

30年をこえる『サラリーマン川柳コンクール』という営みのなかで

変わっていくのは、読み手(読者)の意識である。

いや、読み手の意識というより、読み手そのものなのだ。

(書き手そのものも変わっているのだが)


30年前、『サラリーマン川柳』が誕生した頃、私は20代の学生だった。

貧しくて、ただ貧しくて、学費と生活費を毎日のバイトで賄っていた。

けれど、漠然と夢は見ていたし、将来の自分に期待をしていた。

「大人になれば、こんな世界から抜け出せる」

そんな、当時の私が『サラリーマン川柳』の作品を見て

感じていたのは、こういうことだと思う。

「ダッセーな」とか「こんなサラリーマンには、ぜったいなるもんか」

・・・・

つまり、1ミリたりとも共感していなかった。

というか、共感なんてしたくなかった。


余談だが、古谷三敏さんの漫画に『ダメおやじ』がある。

家庭でも会社でも虐げられる中年サラリーマンの話しだ。

この漫画は子どもの頃の私にトラウマを与えるのだが

サラリーマン川柳』は、『ダメおやじ』に重なるように思えた。


そして、30年後・・・

サラリーマン川柳』の作品に共感している私がいる。

いつからそうなったのかは、分からない。

きっと、30年という長い時間のなかで

色々な経験をして、色々な事を感じて、少しずつ、少しずつ

私自身の何かが変わったのだろう。

共感することが、良いことなのか悪いことなのかを

判断するには、もう少しだけ時間がほしい。


ちなみに、今年の1位の作品の書き手(作者)は

60代の男性である。

その洞察力と表現力、そして何より

コンクールに参加しようとする行動力に、敬意を表します。

本当に、おめでとうございます。


人気ブログランキング


生き方ランキング