街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

好きな後輩が会社を辞めるとき

同じ職場の後輩が、3月いっぱいで会社を辞める。私より一回りも若い彼にはバランス感覚があり、コミュニケーションも仕事もそつなくこなす。何よりも自分の仕事にプライドを持っていて「負けるもんか」という気概がある。そんな気概をギラつかせることなくクールに持ち合わせているところが私は気に入っていた。一言でいえば大人な奴だ。たまに飲みに誘っては表現者同士、世の中の表現物について議論を交わし、互いに考察したりしていた。そして、クソみたいな環境に一石を投じる何かをやってやろうぜ、というような志を常に共有していた。とはいえ、私には予感があった。彼に打ち明けられたとき、とうとうきたか、という感じだった。それは、彼の直近の仕事で彼が経験したコトを知っていたからである。詳細を記す気力もないので端折るが、彼は無能な上司と、腐った同僚と、イカれた営業によって潰されてしまった。コイツらはいちばん年下の彼と彼の企画を見せ物にし、咬ませ犬にした。よってたかって袋叩きにした。彼の名誉のために言っておくが、彼の企画は非常によくできていた。私の感情などどうでもいいが、怒りを通り越して吐き気すら覚えた。彼はこの会社のすべてに絶望し辞職を決意した。本来なら、いちばん守り、育てなければならない才能だった。私は彼に詫びた「ごめんな、何もしてやれなくて」。そうすることしかできなかった。情けないけど、このクソみたいな職場に彼を引き留めることができないのだ。歯がゆすぎる。「ありがとうございます。でも、どうしようもないんですよ。ぜったいムリなんですよ」と彼は言った。彼の諦めと絶望は、職場に向けられた刃だと思った。そして私もヒリヒリとした。彼は誰よりも先に私に打ち明けてくれたわけだが、後日、無能上司に辞職の意思を告げたときのリアクションがまた酷かったらしい。無能上司はまさに青天の霹靂という具合で「まさかお前が」と言ったそうだ。彼を辞職に追いやった張本人に自覚はない。「大甘だな」と私。「大甘ですね」と彼。最後に、彼の次の職場での大いなる活躍と成功を心から祈る。そして、彼を絶望させたこの会社のクソどもの不幸と凋落を切に願う。

 

 

阿呆なコメントを思い出したら、ムカついてきた

去年のこと。とあるテレビ番組で、芸人を都内の遊園地の檻に入れて衆目に晒す企画を行ったところ、想定外の群衆が殺到し、収拾がつかなくなるというハプニングがあり問題となった。近隣住民の方々は、さぞや面食らったことでしょう。この件について私は、同じ日本人として、こういう行動は考えものだし、悲しく思うという趣旨の投稿をしたところ、間もなく投稿に対し次のようなコメントがされていた。〝あたかもすべての日本人がそうであるような印象を受けるので、この件で「日本人」という言葉を使わないでくれ〟というもの。つまり、そんな有象無象といっしょにするなと言いたいのだろう・・・。どこのどいつか知らんけど、阿呆なやつがいるものだ。文脈も汲み取れないような阿呆に偉そうに言われたくないのだよ。それに、番組を企画したスタッフも、件の群衆のほとんども、(おそらく)この阿呆なコメント主も、記事を書いた私も日本人なんだよ。現実なんだよ。それを「日本人」という言葉を使わないでくれとは、ずいぶん横柄で差別的ではないだろうか。それとも、この阿呆なコメント主は全くもって非の打ち所もない人間だけを「日本人」と認めることにしているのだろうか。さぞや日本人であることに誇りを持って生きているのでしょうね。こういう勘違いのナショナリズムが大嫌いである。私も日本人であり、この国を愛している。どちらかといえば右寄りで愛している。けれど、誇りとかって、民族や人種や国籍、イデオロギーを超えて、人間の個そのものにあるのだと思う。個の行動や思想に宿るものだと思う。日本人であるというたけで、クソみたいな自意識を満たし、こんなくだらないコメントを寄越す阿呆には到底分からないだろうけどね。自分を高めてからものを言ってもらいたい。声を大にして言うよ、オメーみたいなやつがこの国をダメにすんだよ。

勘違い女と無能な上司が引き起こした騒動

職場がスタッフの業務の振り分け方をめぐって、ざわついている。事の発端は、1人の女性スタッフの理不尽な要求からである。「今の担当業務を外れたい」というのだ。実際、私が要求されたのでもなく、本人から直接聞いたのでもないのだが、この一言があまりにも多くのスタッフを巻き込んだために、あっという間にウワサが広まり、私の耳にも届いたのだ。彼女の言い分はこうだ。いまのクライアントを担当して約3年経つし、そろそろちがう業務がしてみたいとのことだ。3年が長いかどうかはどうかは知ったこっちゃないが、こういう配置転換をこんな私的な理由で組織に要求すること自体が異例であるし、ご法度とされる暗黙の了解があった。彼女が担当する業務は営業的な制作管理と進行を主とするもので、私からみてもクソつまらない。ただ向き、不向きで言うなら、この業務は彼女に向いていた。天職と言っていい。彼女本人はもっと企画や表現に関わる仕事をしたいのだろうが、丸投げしかできない彼女にそのスキルはない。いまの担当業務は適材適所だと周りは認識していたのだが、彼女にだけはその自覚がなかったというわけだ。まあ、勘違い女の片鱗はこれまで何回も見てきたので驚きはしない。彼女がゴリ押しして得たクリエイティブディレクターという肩書きの名刺をSNSに投稿していたときは、さすがに引いたというか、私が恥ずかしくなった。そんな勘違い女のアホな要求をあろうことか上司が飲んでしまった。飲まされたと言ったほうが正しいかもしれない。上司の権限でノーと言えたはずなのに。それが社内コンプライアンスに抵触するとでも思っているのか。パワハラになると思ったか。理由はどうであれ、このことは仕事に対する無責任と悪しき慣例を現場に解き放ったばかりか、この組織の規律や統制を崩壊させてしまった。クソ勘違い女の配置転換を決めた無能な上司は、当然ながら置き去りにされたクソつまらない業務の後任を探し始めるのだが、誰が受けるかー!んなもん。この一件で「やりたくない仕事は、やらなくていいんだ」という空気が組織に蔓延してしまった。それまでは「業務命令」で済んでいたものが、アホな前例をつくってしまった手前、無能な上司も後任候補の部下を説得できないでいるのだ。足下を見て断る部下もどーかと思うが、自業自得だよ、無能さん。こーなること、予見できなかったあなたの責任だよ。ただね、誰かがやらなきゃいけないんだよね、そのクソつまらない仕事。結局、無能な上司は5人の部下のアサインに失敗すると、次のターゲットを私にしたらしい。今日、その打診があった。仕事を受けて貸しをつくるか、みんなのように「やりたくないから、やりません」と突っぱねるか・・・。いろいろと思うところはある。そして、返事は保留している。

 

 

 

 

本能を叫ぶ少年に心を揺さぶられる

1月のある日のこと。柄にもなく定時で仕事を切り上げ、チャリンコで帰路を辿っていた。時刻は18時をすこし過ぎており、日はとっぷりと暮れている。繁華街を抜けて住宅地に差しかかると、狭い路地に張り付いた家々から、夕餉支度の香りが漂ってくる。幸せな気分だった。日々変わりゆく街並や景色のなかで、変わらないモノに出会えた気がしたから。この感覚は、私を一気に昭和のパラダイスへと連れ去っていく。この感じ、いいな。しばらくすると、前方からこちらに向かって歩いてくる人影を目視した。街灯に照らされたその人物は、どうやら小学生の男の子のようである。下校には遅すぎるから、塾の帰りか、友達の家からの帰りだろう。男の子は何かを大声で叫びながら路地の真ん中を悠然と歩いている。やがて、男の子とすれ違うために、チャリンコにブレーキをかけようとしたとき、彼が何を叫んでいるのかがはっきりと認識できた。「♪は〜らへった〜はらへった〜」 妙な節をつけながら「腹減った」を絶叫しているのだ。私は目と耳を疑った。こんなガキがまだいるのか!?昭和の風景の中には、こんなガキが溢れていた。学校が終われば、まっすぐ帰宅するわけもなく、日が暮れるまで空き地や神社で遊びまくり、空腹を覚えれば家に帰る。道すがら1人や2人は「腹減った」を叫んでいたし、5、6人の大合唱になることもあったものだが・・・。もうとっくの昔に絶滅したと思っていた風景が、令和の世に生きていたことに、懐かしさを通り越して驚きを感じていたのだ。私はチャリンコを路地の脇に停めて、男の子の背中を見送りながら「腹減った」の見事な独唱に聞き入っていた。鼻孔の奥がちょっとだけツンとした。

何はともあれシロを主張する同僚

どうやら納品物の誤配があったらしい。らしい、 というのはそれが私の仕事ではなく、3メートル先のデスクにいる 同僚の仕事だからだ。納品物が何かは知らないが、 大阪の配送センターに届くべき荷物が福岡に届いたというのだ。 この同僚は、関係各所にそのことを電話で速報していて、 それがたまたま聞こえてきただけのことだが、 そのもの言いに違和感を覚えた。

 

同僚は立て続けに3本の電話をしていた。口調から察すると、 直属の上司、営業担当、制作会社の担当の三者であると思われる。 三者に対しては、口調に違いはあるものの、趣旨は一貫して、 こうである。「○○運輸のミスで、大阪着の納品物が、 福岡に届いたので、今日は納品できません」・・・。 誤配の事実より、配送会社のミスを強調したもの言いである。 自分には1ミクロンの非もないことを分かってほしい。 という意図が読み取れる。

 

こんな電話を受ければ、相手の反応は自ずとこうなる。「 どうしてそういうことになるの?」。すると同僚は「うーん、 詳しいことはよくわからないんですよね」・・・。それじゃ、 配送会社のミスかどうかも分からないってことじゃん。 トムブラウン級のツッコミを入れたくなった。 私の覚えた違和感は、 状況確認もろくにできていないにも関わらず、保身のために「 悪者」を無理やり仕立てようとする魂胆に対してである。違和感、 というより嫌悪感に近い。

 

ついに同僚は“ボクは潔白です”の主張のために、 こんなエビデンスを持ち出した。「伝票はちゃんと書きました」 だとさ。あぁ、見苦しい。

 
 
 

何かとサラリーマンを主張するクライアント

 身も心も蹂躙された仕事だった。すべての業務を終えたいま、 この忌まわしい仕事のいきさつを、 半ば放心状態で振り返っているのだが、印象的だったのは、 クライアントの口から再三にわたって発せられた一つのフレーズで ある。「ワタシもサラリーマンなので・・・」。 本当によく聞いた。 今回のクライアントは社内から選抜されたプロジェクトチームで、 役員を筆頭に、4、5人の事務方で成っている。みな、 人間としては悪くはないのだが、 仕事の相手となると最悪な人びとで、 それを象徴していたのがこの「ワタシもサラリーマンなので・・・ 」というフレーズだった。このフレーズの存在は、 とっくに知っているし、はじめて聞いたわけではない。けれど、 私にとってそれは、絶滅寸前のコトバ(とくに危惧はしていない) 、あるいは死語に近いという認識だった。 それほどに久しぶりに聞いた。

 

昔でこそ“サラリーマン”を悲哀の対象とみるきらいもあったが、 私はその概念をいささか楽観視している。それは、 企業や組織に庇護されながら仕事ができるから。「 やりたいことを自由にやればいいじゃん」 ということに他ならない。私は“サラリーマン” をそう解釈している。 多少のミスがあってもクビになることはないし、 死活問題にもならない。腹さえ括れば、 こんなにステキな立場はない。 もちろん世の中にはそんな解釈が通用しないブラックが数多く存在 していることは承知しているが、 最近このフレーズを聞くことがなかったので、 私のような解釈ができる環境が増えたのだろうと勝手に思い込んで いた。

 

けれど、どうやら現実は違っているようだ。 クライアントが言うところの“サラリーマン”には、 どうにもならないという諦めがあり、 カーストに囚われた無力さがある。 自由なんてこれっぽっちも感じない。 昔と何も変わっていないじゃぁないか。「 ワタシもサラリーマンなので・・・」。 そのフレーズをクライアントから聞かされる度に、 同じサラリーマンとしては、悲しくもあり「 もっとサラリーマンの気骨、見せてみろや」と怒りも湧いてくる。 たとえば、「本日は、A案とB案の2種類のデザインをご用意しま した。我々のおすすめはAです」と私。すると事務方の一人が「 私もA案がいいと思うのですが、上がなんと言うか・・・ ワタシもサラリーマンなので、一存では決めかねます」とか「私は A案が良かったのですが、上がB案と申しております。 ワタシもサラリーマンなので、従わざるを得ません」とか。 決して「上と掛け合って、A案を通してきます」とはならない。 すべてがこの調子だった。 プロジェクトチームのほとんどの人間が、 このフレーズを使っていた。チームのトップである役員までもが「 社長に言われたら仕方ないよ。ワタシもサラリーマンなのでね」。 これにはさすがに驚かされた。誰も自分じゃ決められないから、 仕事は滞り、オンスケジュールを保つのも一苦労した・・・。

 

と、ここまでさんざん毒づいてみたものの、「 オメーはちゃんとできてんのかよ」と自問自答してみる。「はい、 できてません」。即答です。企業のなかで自分らしく、 自由に仕事するなんて、なかなかできることじゃないですよね。 私の“サラリーマン”への解釈は、 そうありたいという私の切なる願望であり、 クライアントへの怒りは、ただの同族嫌悪だということだ。ただ、 私は意地でも使わないけどね。「ワタシもサラリーマンなので・・ ・」というフレーズ、こんな惨めなフレーズ。サラリーマンが、 こんな風にサラリーマンを主張しだしたら、もう終わりだよ。

 
 
 

パンチを欲しがるブランドコンサルタント

先日、クライアントとの打ち合わせの場で、 ブランドコンサルタントと会った。その打ち合わせは、 クライアントの新事業の立ち上げに伴うブランド開発をテーマにし たもので、 私の会社はいくつかのコンテンツ制作を請け負っている。 ブランドコンサルタントは見た目30代後半〜40代半ばの女性だ 。(後で調べたら43歳だった)率直に言って“冴えない人” が第一印象である。精いっぱい小ぎれいにしているが、 だいぶくたびれたネイビーのニットスーツ、 型落ちのショルダーバッグ、膨らんだ目の下の涙袋や、 深く刻まれたほうれい線が彼女の冴えなさと、 うさん臭さを際立たせていた。よくもまあ、 こんな奴に自社のブランディングを任せたものだ。極めつけは、 名刺に記されている、 こいつが代表取締役をつとめる会社名がダサすぎる。 ネーミングも、ロゴ化されたデザインも超絶にダサい。私は過去にも、 この手のコンサルタントと何度か仕事をしたことがあるが、 概して大嫌いな人種である。 とにかく自分を売り込むことに躍起で、あらゆるSNSを駆使しな がら薄っぺらいブランド論とゴミみたいなキャリアをひけらかす。 多少のマーケティングとクリエイティブをかじっただけで、 いかにも知っている風を装う。最悪なのは手八丁、 口八丁には長けていて、 クライアントのキーパーソンに取り入るスキルはずば抜けている。 あぁ、大嫌いだ。そんな先入観もあって、 今回の打ち合わせにブランドコンサルタントが同席すると知らされ たときから、もう嫌な予感しかしない。「 ぜったいにグチャグチャにされる」 それしか想像できないのである。こいつには、 もっと上流の部分の整理をきちんとしてほしいのだが「 私のロジックを反映させるわ」 と言わんばかりにアウトプットにも、 生臭い小便ブランド論をまき散らす。残念なことに、 この予感は見事に的中することになる。

 

彼女は当たり前のように長いテーブルの向こう側に座った。 つまりクライアント側である。しかも、 キーパーソンである取締役の隣で「 私がこのクライアントのメシアよ」そんな風にもみえる。 この三流コンサルタントが、えらそうに。 気持ワリーからこっち見んなよ。四流表現者の私は、 打ち合わせが始まる前から、心の中でさんざん毒づいていた。 打ち合わせは、私のプレゼンテーションからはじまった。 コンテンツの考え方から、 具体的な表現にいたるまでを一気に説明する。私は、 正面に座っているキーパーソンと、彼の並びに座る部下5、6名を交互 に見ながら、20分程度のプレゼンを行ったが、その間、 女コンサルタントには一瞥もくれてやらなかった。 私がクライアントの反応を待っていると、 女コンサルタントが口火を切った。「ちょっと2、3質問よろしいですか」。これは想定内である。打ち合わせに、 こういう輩が存在するとき、 クライアントの自社社員が会話の口火になることは稀である。 キーパーソンを含め、みんなそれぞれの出方を伺っている。 いかにもサラリーマン的な振る舞い。 そんな状況で、外部の女コンサルタントがこういう切り出し方をするの は、当然のことでもある。私は少し身構えたが、 できるだけの余裕を醸し出しながら女コンサルタントに向き直り、 穏やかな口調で「どうぞ」と言った。「 こちらの資料に書かれている、アプローチのし方と、 コピー案とはどういう意味なのでしょうか」。 女コンサルタントの質問である。私は思った。「こいつど素人だ」。企画書の読み方も、方向性と表現の違いさえも分からない。 このショーモナイ質問をきっかけに打ち合わせが展開していったの だが、 女コンサルタントは終止キーパーソンにおもねった発言を繰り返し ていた。ある意味、感心させられるのは、どんなに薄っぺらで、 スッカスカな中身であろうとも、 こいつは臆面もなく発言していることだ。くだらなさのあまり、 答えに窮しているこちらが素人っぽく見えるではないか。

 

コンサルタント曰く「うーん、 もう少しビジュアルにパンチがほしいですね」。うわー、 久しぶりに聞いたわ、「パンチ」って。「パンチ、ですか」 極めて冷静な物言いとは裏腹に、 私は誰でもいいからこの女コンサルタントの顔面にパンチを入れて ほしいと強く願った。

 
 
 

誰にでも話しかける友人

9月最初の3連休は山へと出かけた。 約一年ぶりの本格登山である。パートナーは35年来付き合いがあ る友人で、今回の登山の発案者でもある。 気の置けないナイスな漢だ。 友人は私のような年イチ登山のど素人ではなく、暇さえあれば、 しょっちゅう山に入る上級者。そんな友人の、 あくまでも私から見たら「奇行」 とも言える行動がとても気になった。

 

山でのコミュニケーションと言えば、 行き交う人びとの条件反射のような挨拶である。「 おはようございます」、「こんにちは」、「お気をつけて」、「 ありがとうございます」。 人びとは見ず知らずの他人と言葉を交わす。 挨拶に慣れていない私にとっては、 これだけでも十分に心地が悪い。 登山者の清々しいイメージを誰もが、 何の疑いもなく実践している。相手は人間のクズかもしれないし、 ど変態かもしれない。もしかしたら犯罪者かもしれないけれど、 そんなことはお構いない。私も“郷に入っては郷に従え” の精神で、苦手な挨拶をせっせと繰り返す。

 

ただ、挨拶は挨拶であって、 言葉のキャッチボールは一往復でいい。 それ以上のコミュニケーション、 会話への展開はむしろお互いにとってジャマだと思っている。 もちろん山小屋やテント場などで、歩行を終えた登山者同士が、 何かのきっかけで仲良く会話をするのはいいと思う。 私の友人の奇行は、歩行中のほぼ全ての人と、 挨拶以上のコミュニケーションをとろうとすることだ。つまり、 会話をしようとする。「どこから来たんですか」、「 どこまで登るんですか」、「どこに泊まるんですか」。 そんなこと聞いて何になるというのだろう。こうなると、 お互い立ち止って話しをせざるを得ない。山での予定は、 目的地やペース配分よって、人それぞれである。「 一刻も早く先に進みたい」と思っている登山者も多い。 それを足止めさせられるのだから、たまったものではないだろう。 私は、イライラしながらこの様子を静観していた。“ オレも元気なうちに進みたいよ”。 友人のコミュニケーションはさらに続く。「その手ぬぐい、 いいですね」とか「その髪型、カッコいいですね」とか、 相手の外見やファッションをいじるのだ。 もはや山の話しでもない。大きなお世話である。ああ、そうか、 昔から、こういう人間だったよな。悪気はないが、 すこし空気が読めないところがある。きっと、 友人はこの行為を粋だと勘違いしているのだろう。 いけてる山男とでも言いたいのか。私はイライラを募らせながら、 なおも静観している。驚くべきは、 友人に話しかけられた全ての登山者が、 このどうでもいいコミュニケーションに付き合ってくれたというこ とである。友人の話しを、特に遮ることもなく、 丁寧に立ち止って応えてくれた。なんとやさしい事か。

 

そんな光景を見ているうちに、ふと思った。友人のこの行為って、 もしかしたらアリなのか。 山だからこそできる貴重な体験なのだろうか? ちょっと肯定したりもしたけど、 もし自分が話しかけられる立場だとしたら、ぜったいムリである。 さぞ迷惑そうな顔をして、 逃げるように先を急いだことだろう。 話しかけられた登山者が本当のところ、 どう思ったのかは知る由はない。 迷惑に思う人もいたかもしれない。 それこそ山の中のそんな他愛もない会話を楽しんでいた人もいたかもしれない。

 

間違いなく言えることは、私の友人には決して怯まずに、 どんな相手の懐にでも飛び込んでいける能力があるということ。 それは行動力なのか、鈍感力なのか、 はたまた両方なのかは分からない。いずれにせよ、 私には備わっていない能力である。