街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

上司の言い間違いはスルーしておけば誰も傷つかないで済む

とある部内ミーティングでのこと。

その日のミッションは、新しい社内情報システムを導入するにあたり

現状の課題を現場から吸い上げ

新しいシステムに対する要望を部内でまとめることだった。

会議の参加者は約20名。直属の上司がその場を仕切ることになっていた。

働き方改革という大義名分のもとに推し進められる

長時間労働の是正とサービス残業の撲滅

そして生産性の拡大。このシステムにはそういうことが期待されている。

聞こえはいいが、要はスタッフを徹底的に管理して

短い時間で結果を残せとケツをたたき人件費を削減しようとしているのだ。

いったい会社はこのシステムにいくらかけているのだろう。ばからしい。

予め会社が用意していたレジュメを見ながら上司がシステムの特徴を説明する。

私は目を閉じ、腕を組みながらその退屈な口上を聞いていた。

そのときときのことだ。

上司:えー、ということでこれまでのシステムに見受けられた、OSの「きじゃくせい」も解消し・・・

えっ? き・じ・ゃ・く・せ・い?

私はちょっと耳を疑った。そして瞬時に悟った。

レジュメはスタッフ一人ひとりには配布されていなかったのだが

話しの文脈から察するとそこに書かれている単語は「脆弱性」だと思われる。

「きじゃくせい」って・・・。危険の「危」と似ているからって・・・。

そこまでの思考に至るまで、1秒もかからなかったのではないだろうか。

私は他のスタッフの反応を見てやろうと思った。

笑いを必死にこらえているやつがいるかもしれない。

アイコンタクトとって呆れ顔しているやつがいるかもしれない。

ゆっくりと瞼を開け、目だけを動かしながら会議室を見渡してみた。

するとどうだろう、そこにあったのは驚くほどの無反応だ。

自分の手元をジッと見つめる者、私と同じく目を閉じている者

真面目にメモをとる者。みんな何事もなかったように、上司の話を聞いている。

もちろん、ニヤけているやつなんて一人もいない。ざわつくこともない。

まったくの凪ぎ状態である。

みんな、気がついていないのか?いや、そんなはずはない。

確かにこんなつまらない話、聞き流しているやつも多いだろう。

けれど、全員がそうだとは思えない。

もしかすると、上司の言い間違いそのものに気がついていない

つまり、「きじゃくせい」を正しい単語として受け入れているやつがいるのかもしれない。

けれど、いたとしても数人だろう。

やがて、ミーティングが終わってもそのことに触れるスタッフは一人もいなかった。

結局のところ、スタッフの中に上司の言い間違いに気づいていたやつがいたのかは

分からず終いだったわけだ。

この出来事の顛末としてはベストだったのだと思う。

もしも、言い間違いに気づいたスタッフの誰かが気を利かせたつもりで

上司の話しを遮って「ぜ・い・じゃ・く、ですよね」なんて発言したり

ちょっとでも場がざわついて、上司がそれに気づいたりしたなら

それこそ悲劇が起こっていたかもしれない。

(現にそういう発言があってもおかしくない職場なのだ)

機嫌を損ねた上司が逆ギレしたかもしれないし

煽りを食った他のスタッフが、発言したスタッフを責めていたかもしれない。

結果としてこの一件で傷ついた人間は誰もいなかった。

漢字の読めない上司はいかがかと思うのだが、別に大勢に影響するほどの事ではない。

何らかのカタチで学習してほしいものだが、知った事ではない。

いずれにせよ、退屈なミーティングは退屈なまま終わった。

空気の読めるスタッフたちの賢明な判断か、それともただの偶然か・・・。

口は災いのもと、という格言もある。

もし、大勢に影響のない上司の言い間違いに遭遇したら

余計なストレスを被らないためにも、スルーをおススメしたい。


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いいサービスを受ける前に自分がいい客であるかを考えてみる

いつもは冴えないくせに自分の立場が上と

カン違いした途端、偉そうに振る舞う輩がいる。

私はこういう人間を心から軽蔑する。クズである。

私は学生時代、ホテルのレストランでウェイターのアルバイトを

していたのだが、この手のクズと思しき客を嫌というほど見てきた。

売れない芸能人、ヤクザのチンピラ、ただの成金、その脛をかじって

生きている頭の悪い学生など大勢見てきた。

とにかく、みんな下品な連中だったことを覚えている。

もちろんこんな客はほんの一握りで、この店の普段の客筋はとてもよかった。

だからこそ、こういうクズな客は余計に目立つ。(当人たちは目立ちたいと考えている)

彼らに共通して言えるのは「オレは客だ」という貧しい主張だ。

実際に口に出すやつもいた。「オレは客だぞ!」

客だからわがままが言える、客だから好き勝手していい。

金払ってるんだから、言うこと聞けよ的な言動・・・。

具体的な内容にまで言及しないが、いま思い返しても、腹立たしい。

まだ若かった私は“こんなやつらにまともなサービスなんて必要ない”

そう思っていた。そうすると、すべての接客が雑になる。

結果として、クズな客は、いいサービスを受けられない。

余談だが、松田優作さんの主演映画『野獣死すべし』の中で

鹿賀丈史さん演じるレストランのウェイター真田が

おもむろにクズな客を殴り飛ばすシーンがあった。

殴られた嫌な客を演じていたのは阿藤快さんだ。

とても痛快なシーンである。

・・・私も目の前のクズ客を何度殴ってやろうと考えたことか。

私がそうしなかったのは、決して良心からではなく保身のためであって

今でも殴られて当然だと思っている。

一つホテルの名誉のために言っておくが、ここのスタッフ教育は素晴らしく

私たちアルバイトにもホテルサービスの何たるかを徹底して教えてくれた。

ホテルマンたるものいかなる場合も最良のサービスをお客さまに提供しなければならない。

そういう意味では、私はホテルマンとして失格である。

私がこのアルバイト経験で学んだのは“お客さまは神様です”みたいな

ホテルマンの精神ではない。

いい客でいれば、もっといいサービスが受けられる可能性があるということだ。

サービスを提供する側とサービスを受ける側がそれぞれの役割を果たすことで

良質のコミュニケーションが生まれるということだ。

両者はその場の役割が違うだけで、人間としては対等である。

この教訓は、社会人になってからも大いに活かされた。

実はこれ、普段の仕事のなかの人間関係にも当てはまる。

外部のブレーンによりいい仕事をしてもらいたいのなら

いいクライアントでいることだ。

最後に、アルバイト時代のクズな客のもう一つの共通点として

その多くは “雑魚”か“三流”ということである。

本物のスターやヤクザの幹部クラスは驚くほど品格があり紳士的な客だった。

もちろん私が、誠心誠意のサービスをしたのは言うまでもない。


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「ありがとう」の代わりに用いられる「すみません」の違和感

「すみません」とは、つくづく便利な言葉だ。

本来は何らかの自分の過失を償うときの言葉だと思うのだが

様々な用途とシチュエーションで重宝されている。

飲食店で店員さんを呼びとめるときの「すみません」

満員電車から降車するとき人をかきわけて「すみません」

他人と出会い頭でぶつかりそうになったときの「すみません」

みんな普段の暮らしの中で条件反射のように「すみません」を

使っているのではないだろうか。

決して間違いではないしコミュニケーションとしては成立しているのだと思う。

「すみません」とは、正しくはその相手に対して

何らかの代償が済んでいないことの意思表示らしいのだが

そんなことを気にして使っている人はいないだろう。

それは、それでいい。思いが伝わっているのなら、それでいい。

けれど、そんな「すみません」の中で私が唯一気になっているのが

「ありがとう」の代わりの「すみません」だ。この「すみません」も実に多用されている。

例えばエレベーターで目的のフロアに到着したとき入口付近にいる私は「開」ポタンを押しながら

他の人が降りるのを待っている。すると大体の人が「すみません」と言いながら

エレベーターを降りていく。

または人がやっと一人通れるような細い歩道を歩いていると

反対側から乳母車を押した主婦がやってくる。

私は歩道の端っこで身体をよじらせながら主婦が通り過ぎるのを待つ。

するとこの主婦は「すみません」と言ってすれ違っていく。

どちらの場合も悪い気はしない。

何も言わないで当たり前の顔をして

エレベーターを降りたり、歩道の真ん中を闊歩したりする輩とは明らかに性質が違う。

とても好感が持てるし良心的である。

私としては、謝ってもらうようなことをされたわけではないので

逆に「すみません」なんて言ってもらって「すみません」みたいな気持ちになってしまう。

仮に、この良心的な人びとの「すみません」が感謝の意味で使われているのなら

(おそらくそうなのだが)

やっぱりそこは「ありがとうございます」なんだと思う。

こちらも「どういたしまして」と素直に反応しやすい。

なんとなく「すみません」より「ありがとう」の方が、言った方も、言われた方も

より気持ちよくなれるような気がする。そういうコミュニケーションなのだと思う。

けれど照れか、謙遜か、人びとの何らかの自意識がそうさせるのか、ほとんどの人は「すみません」派だ。

もちろん、私はこの種の「ありがとう」は実装済みだ。

もともと私も「すみません」派だったが、意識的に習慣化し「ありがとう」派に定着した

以前、親しい知り合いに言われたことがある。

“たろさんの「ありがとう」って、とてもスマートですよね”・・・どうやら、そういうことらしい。


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コミュニケーションが得意ではない人に「克服」より「隠蔽」のススメ

私は人とのコミュニケーションが苦手である。

というか嫌いだ。

こんな風につぶやく私は、さしずめ社会不適合者といったところだろうか。

これは、私の心の奥深くに住まう邪気のようなもので

(実際には、純粋な私の本性だと考えている)

めったに解放されることはない。

解放されれば私が、私の生きるコミュニティで

様々な不利益と不都合を被ることが容易に想像できるからだ。

社会はコミュニケーションのできない人間に

やさしくないという性質をもっている。

単なる人付き合いが下手な人に対しても

鬱などの心の病を患っている人に対しても程度の差こそあれ同じだ。

好奇の目に晒したり、コミュニティから排除したり

人として正当な評価をしてくれなかったり。

つまり、そういう人間はいじめやハラスメントの対象にされやすい。

世代や性別、属しているコミュニティの種類を問わず

会社勤めのオヤジであろうが、学校に通う女子高生であろうが的にされる。

だから私は、私のコミュニケーション嫌いを心の奥に閉じ込めた。

やらしく聞こえるかもしれないが、これは「隠蔽」である。

ただし、 自分を護るための“正当隠蔽”である。

無理に「克服」する必要はない。

そもそも、そんなに簡単にできるものでもない。

 嫌いなものは嫌いのままでいい、苦手なものは苦手のままでいい。

そう自分に言い聞かせてきた。

現に私は隠蔽することで、本来の自分とはかけ離れたイメージを伴いながら

時にはコミュニケーション能力の高い人間だと言われるようになった。

いつしか、そのイメージが自分に馴染んで

ある程度自在にコントロールできるようにもなった。

人は、人とのコミュニケーションを避けては通れない。

コミュニケーション嫌いを晒して社会からドロップアウトするか

隠して社会との接点を保つかの二択である。

私は後者を選択したに過ぎない。

まあ、生きていく上ではその方が都合がいいのも事実である。

けれど、何かの弾みで隠蔽していたはずの本来の自分

つまりコミュニケーションできない自分が解き放たれることがある。

抑圧されていた本性は、それはそれは邪悪な臭気を放ちながら

世間をのたうち回るのだ。


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