街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

50代会社員がそれ以上でも、それ以下でもない事を悟った件

50代会社員。

いまの私のすべて。

それ以上でも、それ以下でもない。

もし、いま私が犯罪を犯して、ニュースで報道されると

50代会社員のA容疑者となる。

決して、50代会社経営とか50代会社役員にはならない。

(容疑も傷害がいいところだ)

50代って、社会の勝ち組と負け組が

はっきりと分かれる年代だと思う。

私は明らかに負け組だ。

会社員として四半世紀とちょっと

それなりにがんばって働いてきたつもりだ。

半ばコミュニケーション障害を隠し

なんとか社会と折り合いをつけながら

いい仕事を目指し、常に前を向いてやってきた。

そうすることを疑わなかったし、そんな自分に満足だった。

40代まではそれで良かった。

けれど、50代の声を聞いたら急に不安に陥る。

「あれ、俺、今まで何やってきたんだっけ?」

それで、前を向いて働いてきた自分の後ろには

何があるのか、恐る恐る振り返ってみた。

そしたらそこには・・・何も・・・ない・・・。

水前寺清子さんの『三百六十五歩のマーチ』に

♪〜あなたがつけた足跡にゃぁ、きれいな花が咲くでしょう。

という歌詞があるが

花が咲くどころか、足跡すら残っていないのだ。

まったくの『無』。

仕事も、信用も、人も、権力も、金も、何もない。

そこにあるのは、50代会社員という実態だけだ。

ポツン・・・。

これにはかなり凹んだ。

ハイ、50代会社員、負け組確定。

負け組って、何も残せていない人を言うのだと思った。

取り返しがつかないからもっと凹む。

そうすると今度は

何も残せていない自分の立ち位置というか

価値というか、そんなものが無性に気になりはじめる。

「俺って、誰にも必要とされない人間じゃん」

身内に対してではなく、あくまでも社会に対して。

(身内には必要とされていると思いたい)

そんな思考になるのだ。

過去を取り戻す事はできない。

そして、もしこれから何かを残そうとするとして

自分に何ができるのかは分からない。

残りのサラリーマン人生の中で見つけるべきなのか

何らかの社会貢献なのか、金儲けに走るのか。

今更ながら考える、今日この頃・・・。

まあ、今更そんな事を考えているから

ただの50代会社員なのだろう。


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歩きスマホの人にぶつかりそうになって、家内にこっぴどく叱られる

歩きスマホの人に故意にぶつかってケガをさせたり

金品を要求したりする「当たり屋」が増えているという。

昨年も兵庫でスマホをしていた女性が体当たりされて

重傷を負ったという事件があった。

歩きスマホそのものが社会問題になって久しいが

「当たり屋」はまた別の問題で、別の迷惑である。

確かに歩きスマホの人が、自分の動線上にいたら頭にくる。

急いでいる時なんか本当にイライラする。

だからといって、わざとぶつかりに行くのは、どういう心理なのだろう。

ちょっと考察してみる。

当たり屋には、金銭目当てと、金銭目当てではない2種類がある。

金銭目当ての「当たり屋」は、ぶつかって損害賠償金や示談金を要求するが

金銭目当てではない「当たり屋」はそうではない。

実は、最初から、相手を傷つけようと思ってぶつかるのでもない。

このタイプには、歪んだ正義感というか、倫理観があって

それを自分のルールに置き換えて事に及んでいたりする。

その思考のプロセスは例えばこうである・・・

歩きスマホは社会の迷惑。

よって、歩きスマホをしている人は悪である。

だから、ちょっと懲らしめてやれ。

ぶつかったとしても、それは相手が悪い。

そんな感覚ではないだろうか。

自分が悪いことをしているという自覚は少ないのではないか。

ぶつかった相手にケガをさせてしまって

はじめて事の大きさに気づいたりする。

歩きスマホの「当たり屋」を擁護したり指示するつもりは毛頭ないが

こういう人たちの心理がちょっと分かる気もするのだ。

それは、先日家内と外食をともにした帰りの出来事である。

私たちが地下鉄のコンコースを歩いていると

正面から歩きスマホをしている若いサラリーマンらしき人がやってきた。

そんなに広い通路ではないが、身体を避けられないことはない。

けれど、このままお互いが直進すれば

間違いなく肩がぶつかる間合いである。

本当は、自分が数歩横に移動すればいいのだ。

もしくは口があるのだから、言葉で注意を促せばいいだけだ。

「失礼します」とか「通ります」とか

当たり障りのない言い方で、相手に気づいてもらえばいいのだ。

私は30メートル手前からサラリーマンを認識しているが

相手は全く私に気づいていない。スマホに夢中である。

恐ろしい事に、この時の私の思考は先述した

「当たり屋」のそれとほぼ同じだった。

お酒が入っていたことも、その思考に拍車をかけていたのかもしれない。

20メートル、15メートル、10メートル・・・。

何でこいつのために自分が道を譲らなければならないのか。

ぶつかっちゃうけど、歩きスマホしてる方が悪いから仕方ないよね。

あぁ、ぶつかっちゃうな・・・。

その瞬間、家内が私の肘を抱えて、自分の方へ私の身体を引き寄せた。

家内の機転によって、衝突は回避されたのである。

若いサラリーマンはようやく目の前の私たちの存在に気づき

「あっ、すみません」と言って、すれ違っていった。

歩きスマホが迷惑行為であることは事実だが

そんな人たちへの対処の仕方で、まったく違う結末になることも確かだ。

私が「当たり屋」になってしまうかもしれなかった。

ケガをさせてしまう可能性もあった。

これには猛省である。

故意の衝突は論外だが、過失であっても罪に問われる可能性もある。

どちらにとっても不幸な出来事である。

日本には、歩きスマホそのものを規制する法律はまだない。

そんな法律ができることが、本当にいいとも思わない。

モラルという一言で済ませるのは簡単だが

スマホを使用することにおいて、周囲の人との関係とか距離感とか状況を

みんなが考えられる、成熟した社会になればいいと思うのだ。

「危険に巻き込まれないため」とか「面倒くさい事を避けたい」とか

「家族が路頭に迷うかもしれない」とか。

そんな自分本位な考え方でもいいと思う。

それもまた、コミュニケーションなのだ。

ちなみに家内はこの時「気をつけてよ!」ではなく

「もう、やめてよ!」と言って、めちゃめちゃ怒った。

家内は、私の危うい思考をお見通しだったということだ。

それは、それで恐ろしいと思った。


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映画『ロンドン、人生はじめます』を観て“なりすまし友だち”を考える

映画を観てきた。

ダイアン・キートン主演の『ロンドン、人生はじめます』。

実話に基づいた、ロマンティック・ラブドラマである。

ここでは映画そのものの感想について詳しく言及しないが

まあまあ良い映画だったと思う。あらすじは下記のとおり。

ロンドン郊外の高級マンションで暮らす主人公エミリーは夫の死後

様々な問題に直面し、日々を悪戦苦闘していた。そんなある日

ホームレスの男性と出会い、本来の自分を取り戻していく・・・。

この映画の中で主人公は、同じマンションに住むミセスたちと

ご近所付き合いをしているのだが、そのミセスたちの親分格のマダム

との人間関係がちょっと面白い。

マダムは主人公を友だちと呼び、様々なコミュニティ活動に

勧誘するのだが、主人公はその人間関係にげんなりしている。

けれど、生きていくため便宜上マダムの友だちを受入れている。

この関係が面白かったのは、一見マダムが一方的に主人公を

友だちと思い込んでいるように見えるのだが、実はそうじゃない。

マダムもまた、主人公を友だちとは、思っていない事だ。

自分の活動に役立つから、友だちとして身近に置いておきたかっただけだ。

要は、お互いに友だちではない他人を、友だちとして付き合っている。

“なりすまし友だち”なのだ。

いまさら、友だちを定義するつもりはない。

無理矢理定義しようとするメディアや

人もいるにはいるがナンセンスだと思っている。

友だちの解釈なんて人それぞれでいいと思うし、その時々で変化してもいいと思う。

(というか当然そうなると思っている。)

だから私にとっては友だちだけど、相手は知人としか思っていない

という事も起こりうる。

前者にしてみればショックな事なのかもしれないが

後者の解釈を否定する事はだれにもできない。

食べ物の好き嫌いが人によって違うように、友だちの解釈も

人によって違うものである。
けれど、世の中には、この映画の登場人物のように

友だちになりすますことで、コミュニケーションを円滑にしたり

自分が暮らしやすいように仕向けたりするケースがある。

こんな関係に心当たりのある人は案外多いのではないだろうか。

なりすましの友達関係には打算が働いていることが多い。

それは、相手にとっても自分にとってもも言えることだ。

もし、そのコミュニケーションに不自由がないのなら

逆に居心地の良さを感じているのなら

なりすまし友達の関係を清算する必要はないと思う。

社会生活には、むしろ絶対に必要な気もする。


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「バカって言う方がバカなんだよ」の本当

子どもの頃、経験した人も多いのではないだろうか。

けんかの時の常套句「バカって言う方がバカなんだよ」。

もはや面と向かってこれを言い合う人はなかなかいないだろう。

ある調査では年齢が上がるほど「バカ」と言われる事に反応しやすい

という結果があった。多分それは生きている中で

いろいろな「バカ」の使い方を見てきたからなのだと思う。

要は、社会経験の差によって出てきた結果ではないだろうか。

「バカ」なんて日常的に使われているし、それこそ気のおけない人との

他愛のない会話の中ではしょっちゅう出てくる言葉だ。

そこにいちいち目くじらを立てる人なんていない。

「バカ」にも種類がある。

こういった日常的に使われるのは「他意のないバカ」である。

言う方も、言われる方も気にしていない。

対して「悪意のバカ」もある。

相手の、人としての尊厳を破壊しようとする「バカ」である。

この「バカ」には確信的に相手を見下し、おとしめようとする意志がある。

攻撃的で非常に危険だ。もちろん喧嘩にもなるし、誰かが傷つく。

普段の生活の中ではあまりお目にかかる事のない「悪意のバカ」だが

先日たまたま職場で遭遇した。

ある同僚が電話をしている。相手は社内の営業担当のようだ。

何かの行き違いから、この同僚がエキサイトしだしたのが声の様子でわかる。

職場の多勢がその会話の成り行きを聞いていた。

すると「あなたバカなの? ねぇ、バカでしょ・・・」と聞こえてきた。

明らかに「悪意のバカ」である。

実際のところ、私にはその同僚がどういう状況でその「バカ」を

発したのかは分からない。

電話の相手がどれほどバカな真似をしたのかは分からない。

でも、どんな事情があるにせよ、とても不愉快だった。

もしかしたらこの同僚は、相手を罵る事によって「力」とか「有能さ」とか

デキル自分を誇示しようとしていたのかもしれない。

けれど、第三者である私がこの同僚に感じたのは

「偉そうに」「格好わるい」「無神経」などマイナス印象ばかりである。

そして、「バカって言う方がバカ」に激しく同意した。

本当にバカに見えた。

確認したわけではないが、この会話を聞いていたほとんどの人は

同じ事を感じていたのではないだろうか。

「バカも休み休み言え」という慣用句がある。

意味こそ違うが、少し「バカ」の使い方を考えた方がよさそうだ。

それって、今どきモラハラとかパワハラの対象にもなりかねないし・・・。

それにしても「悪意のバカ」を職場で平気に使うこの同僚は

やっぱりバカなのだと思う。


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母の日に想う、母親への「感謝」と父親への「憐憫」

母の日に、父を想う。

母に対して多少の後ろめたさはあるが

私の場合、母への「感謝」と父への「憐憫」は表裏だ。

父は、私が子どもの頃から家にいない人だった。

だからといって寂しいと感じたこともなかったし、それが当たりまえだと思っていた。

何かをいっしょにした、という記憶もあまり残っていない。

家にいる時、たまにキャッチボールをしてくれることがあったが

楽しかったというより、どちらかというと面倒くさかったことを覚えている。

私は明らかに父に人見知りしていた。

 

私が13歳のとき、両親は離婚した。

この時も寂しいという感情は一切なかった。

どちらかというと冷めた目で両親の成り行きを見ていた。

「苗字かわるの、やだな・・・」

私は三人兄弟の長男で、歳の離れた弟が二人いる。

弟たちには父の記憶というものがほとんどない。

彼らが成長過程で父親(像)に何を感じてきたのかは分からない。

少なくても私の場合は養育費もろくに払わない父を軽蔑はしたが

父がいなくて寂しいと感じたり、父と息子の情緒的な関係を

恋しいと思ったことはその後の人生で一度もない。

母への最大の「感謝」は女手一つで三人の息子を育ててくれた事に対してではない。

父親がいない寂しさや不自由さを私たちに感じさせないで育ててくれた事に対してだ。

 

やがて父との音信は途絶え、そして20年近い月日が流れた。

私は31歳になり、二人の弟も成人していた。

そんなある日突然、父の親戚から連絡がある。

父が肝臓ガンを患い入院している。もう長くないから面会に来てほしいと言う。

親戚の話によると、父の余命は半年を切っていた。

母に相談すると「私はもう他人だから行かないけど

あなたたちは血を分けた親子なんだから行ってきなさい」との事。

私は、すぐ下の弟を連れて父に会いに行くことにした。

 

父は病院のベッドで横になり、宙を見つめていた。

声をかけると父は自ら上半身を起こし、私たちをベッドの傍らの丸イスに座るよう促した。

「大丈夫?」と私。「ああ」と父。案外と元気そうだ。

久しぶりの父との再開は感動的、などというものではなく

実に素っ気ないものだった。期待していたわけではないが

正直、「こんなものか」と思う。それは父の態度にではなく私自身の感情に対してだ。

私たちは父の病状や、それぞれの近況について語りあった。それは長い父子の時間を埋めるには

あまりにも短い時間だったが、お互いの現状を知る上では充分な時間だった。

父の晩年はあまりにも孤独だった。

父への「憐憫」とは家族と上手に付き合えなかったという事に対してだ。

もちろん、それは父の自業自得ではある。父のせいで、みんなが苦労した。

けれど、父もまたコミュニケーションが得意な人ではなかったのだと思う。

生きづらい人だったのだと思う。皮肉なものだが、そんな人だったからこそ

母の奇跡的な子育てがあったとも言える。

 

結局、この面会が父との最後になった。その3ヶ月後に父は死んだ。64歳だった。

私は、私が父の存在を消して生きてきた(母の子育てのおかげで)ように

父もまた子どもたちの存在を消して生きたのだと思っていたのだが

それは私の誤解だったようだ。

後日、父の僅かばかりの遺品を整理していると使い込まれた

ボロボロのビジネス手帳が出てきた。おもむろに表紙をめくってみる。

するとそこにあったのは、力強い父の字で書かれた

私たち兄弟3人のフルネームとそれぞれの生年月日だった。

 

終始父の話になってしまった感があるが

あくまでも主役は私たちを必死の思いで育ててくれた母である。

そんな母は今日も元気に生きている。

あらためて感謝します。「ありがとう」


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「聞き上手」と「会話泥棒」のコミュニケーション

「聞き上手」とはどういう人を言うのだろうか。たとえば

相手の話しに口を挟まないで同調し、頷きながら聞ける人。

相手の話しを尊重し、その内容を肯定しながら聞ける人。

何かをしながらではなく、話しを聞く事だけに集中できる人。

聞き上手を定義することは難しいが、特徴としては共通しているのだと思う。

ただ、聞き上手が自分のことは話さないとか、自分の意見を持たない、というのは大きな誤解だ。

彼らは、相手の話しをただ聞いているだけではない。

相手の感情を察し、その場の空気を読み、話しの内容を整理しながら

自分の意見を述べる絶妙なタイミングを計っているのだ。

一方「会話泥棒」は聞き上手の真逆な人と言ってもいい。特徴としては

相手の話しが終わる前に自分の話しをカットインしてくる人。

話題がコロコロと変わって、元の話題に戻れない人。

主語が「オレ」または「オレのトモダチ」で、自慢話が多い人。

基本自己中心的であり、とてもコミュニケーションがとりづらい。

聞き上手と会話泥棒。この水と油のような2つのタイプが対峙した時

一体どんな反応が起こるのだろうか。

以下は、私が実際にその場に居合わせた時の不幸な出来事である。

聞き上手はフリーランスのライターのA女史。

会話泥棒は職場の後輩のB子。ライター志望である

A女史は、私たちの業界では“大御所”と呼ばれるほどの人物だが

物腰は低く決して偉ぶったりすることのない上品な女性だ。

B子の方は、キャリアもないくせに自分をできる女と勘違いしている女である。

仕事も生き方も、格が違いすぎる。

たまたま縁があって一緒に仕事をすることになった私たちは

打ち合わせを兼ねて会食することになった。

最初はごく普通に会話のキャッチボールができていた。

しばらくすると、場の空気に慣れ始めたB子が調子に乗りはじめた。

よっぽど業界人として認めてもらいたかったのか、自分アピールを始めたのだ。

この自分アピールが実にくだらないのは、そのほとんどが

「わたし、◯◯さんと知り合いで、よく飲みに行くんです」とか

「わたし、△△社の◯◯さんと大学のゼミが一緒だったんです」とか

自分、顔が広いですアピールである。

それでも聞き上手のA女史は、我慢強く聞いてくれる。

さらに調子に乗ってしゃべりまくるB子。

前述したが、聞き上手は決して何も話さない人ではない。

話すタイミングを計っている人なのだ。

A女史は頃合いを見計らって、このくだらない自分アピールに対しての

“返し”を何度も試みようする。きっと、付き合い方のアドバイスでも

してくれようとしたのだろう。けれど会話泥棒のB子はことごとく

A女史の会話を、食い気味に奪っていく。

放置していた私も悪かったのだが、止めようがなかった。

やがて、B子の独壇場と化した苦痛な会食は終わった。

帰り際、A女史がB子に言い放った。

いつも通りの穏やかで品の良い口調で言い放った。

「B子さん、あなたライターに向いてないわ。

ライターって、人の話しを吸収する人なの、人の話しを奪う人には無理よ」

はい、ごもっともです。

聞き上手に甘えすぎてはいけない。


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上司の言い間違いはスルーしておけば誰も傷つかないで済む

とある部内ミーティングでのこと。

その日のミッションは、新しい社内情報システムを導入するにあたり

現状の課題を現場から吸い上げ

新しいシステムに対する要望を部内でまとめることだった。

会議の参加者は約20名。直属の上司がその場を仕切ることになっていた。

働き方改革という大義名分のもとに推し進められる

長時間労働の是正とサービス残業の撲滅

そして生産性の拡大。このシステムにはそういうことが期待されている。

聞こえはいいが、要はスタッフを徹底的に管理して

短い時間で結果を残せとケツをたたき人件費を削減しようとしているのだ。

いったい会社はこのシステムにいくらかけているのだろう。ばからしい。

予め会社が用意していたレジュメを見ながら上司がシステムの特徴を説明する。

私は目を閉じ、腕を組みながらその退屈な口上を聞いていた。

そのときときのことだ。

上司:えー、ということでこれまでのシステムに見受けられた、OSの「きじゃくせい」も解消し・・・

えっ? き・じ・ゃ・く・せ・い?

私はちょっと耳を疑った。そして瞬時に悟った。

レジュメはスタッフ一人ひとりには配布されていなかったのだが

話しの文脈から察するとそこに書かれている単語は「脆弱性」だと思われる。

「きじゃくせい」って・・・。危険の「危」と似ているからって・・・。

そこまでの思考に至るまで、1秒もかからなかったのではないだろうか。

私は他のスタッフの反応を見てやろうと思った。

笑いを必死にこらえているやつがいるかもしれない。

アイコンタクトとって呆れ顔しているやつがいるかもしれない。

ゆっくりと瞼を開け、目だけを動かしながら会議室を見渡してみた。

するとどうだろう、そこにあったのは驚くほどの無反応だ。

自分の手元をジッと見つめる者、私と同じく目を閉じている者

真面目にメモをとる者。みんな何事もなかったように、上司の話を聞いている。

もちろん、ニヤけているやつなんて一人もいない。ざわつくこともない。

まったくの凪ぎ状態である。

みんな、気がついていないのか?いや、そんなはずはない。

確かにこんなつまらない話、聞き流しているやつも多いだろう。

けれど、全員がそうだとは思えない。

もしかすると、上司の言い間違いそのものに気がついていない

つまり、「きじゃくせい」を正しい単語として受け入れているやつがいるのかもしれない。

けれど、いたとしても数人だろう。

やがて、ミーティングが終わってもそのことに触れるスタッフは一人もいなかった。

結局のところ、スタッフの中に上司の言い間違いに気づいていたやつがいたのかは

分からず終いだったわけだ。

この出来事の顛末としてはベストだったのだと思う。

もしも、言い間違いに気づいたスタッフの誰かが気を利かせたつもりで

上司の話しを遮って「ぜ・い・じゃ・く、ですよね」なんて発言したり

ちょっとでも場がざわついて、上司がそれに気づいたりしたなら

それこそ悲劇が起こっていたかもしれない。

(現にそういう発言があってもおかしくない職場なのだ)

機嫌を損ねた上司が逆ギレしたかもしれないし

煽りを食った他のスタッフが、発言したスタッフを責めていたかもしれない。

結果としてこの一件で傷ついた人間は誰もいなかった。

漢字の読めない上司はいかがかと思うのだが、別に大勢に影響するほどの事ではない。

何らかのカタチで学習してほしいものだが、知った事ではない。

いずれにせよ、退屈なミーティングは退屈なまま終わった。

空気の読めるスタッフたちの賢明な判断か、それともただの偶然か・・・。

口は災いのもと、という格言もある。

もし、大勢に影響のない上司の言い間違いに遭遇したら

余計なストレスを被らないためにも、スルーをおススメしたい。


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いいサービスを受ける前に自分がいい客であるかを考えてみる

いつもは冴えないくせに自分の立場が上と

カン違いした途端、偉そうに振る舞う輩がいる。

私はこういう人間を心から軽蔑する。クズである。

私は学生時代、ホテルのレストランでウェイターのアルバイトを

していたのだが、この手のクズと思しき客を嫌というほど見てきた。

売れない芸能人、ヤクザのチンピラ、ただの成金、その脛をかじって

生きている頭の悪い学生など大勢見てきた。

とにかく、みんな下品な連中だったことを覚えている。

もちろんこんな客はほんの一握りで、この店の普段の客筋はとてもよかった。

だからこそ、こういうクズな客は余計に目立つ。(当人たちは目立ちたいと考えている)

彼らに共通して言えるのは「オレは客だ」という貧しい主張だ。

実際に口に出すやつもいた。「オレは客だぞ!」

客だからわがままが言える、客だから好き勝手していい。

金払ってるんだから、言うこと聞けよ的な言動・・・。

具体的な内容にまで言及しないが、いま思い返しても、腹立たしい。

まだ若かった私は“こんなやつらにまともなサービスなんて必要ない”

そう思っていた。そうすると、すべての接客が雑になる。

結果として、クズな客は、いいサービスを受けられない。

余談だが、松田優作さんの主演映画『野獣死すべし』の中で

鹿賀丈史さん演じるレストランのウェイター真田が

おもむろにクズな客を殴り飛ばすシーンがあった。

殴られた嫌な客を演じていたのは阿藤快さんだ。

とても痛快なシーンである。

・・・私も目の前のクズ客を何度殴ってやろうと考えたことか。

私がそうしなかったのは、決して良心からではなく保身のためであって

今でも殴られて当然だと思っている。

一つホテルの名誉のために言っておくが、ここのスタッフ教育は素晴らしく

私たちアルバイトにもホテルサービスの何たるかを徹底して教えてくれた。

ホテルマンたるものいかなる場合も最良のサービスをお客さまに提供しなければならない。

そういう意味では、私はホテルマンとして失格である。

私がこのアルバイト経験で学んだのは“お客さまは神様です”みたいな

ホテルマンの精神ではない。

いい客でいれば、もっといいサービスが受けられる可能性があるということだ。

サービスを提供する側とサービスを受ける側がそれぞれの役割を果たすことで

良質のコミュニケーションが生まれるということだ。

両者はその場の役割が違うだけで、人間としては対等である。

この教訓は、社会人になってからも大いに活かされた。

実はこれ、普段の仕事のなかの人間関係にも当てはまる。

外部のブレーンによりいい仕事をしてもらいたいのなら

いいクライアントでいることだ。

最後に、アルバイト時代のクズな客のもう一つの共通点として

その多くは “雑魚”か“三流”ということである。

本物のスターやヤクザの幹部クラスは驚くほど品格があり紳士的な客だった。

もちろん私が、誠心誠意のサービスをしたのは言うまでもない。


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