街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

何かとサラリーマンを主張するクライアント

 身も心も蹂躙された仕事だった。すべての業務を終えたいま、 この忌まわしい仕事のいきさつを、 半ば放心状態で振り返っているのだが、印象的だったのは、 クライアントの口から再三にわたって発せられた一つのフレーズで ある。「ワタシもサラリーマンなので・・・」。 本当によく聞いた。 今回のクライアントは社内から選抜されたプロジェクトチームで、 役員を筆頭に、4、5人の事務方で成っている。みな、 人間としては悪くはないのだが、 仕事の相手となると最悪な人びとで、 それを象徴していたのがこの「ワタシもサラリーマンなので・・・ 」というフレーズだった。このフレーズの存在は、 とっくに知っているし、はじめて聞いたわけではない。けれど、 私にとってそれは、絶滅寸前のコトバ(とくに危惧はしていない) 、あるいは死語に近いという認識だった。 それほどに久しぶりに聞いた。

 

昔でこそ“サラリーマン”を悲哀の対象とみるきらいもあったが、 私はその概念をいささか楽観視している。それは、 企業や組織に庇護されながら仕事ができるから。「 やりたいことを自由にやればいいじゃん」 ということに他ならない。私は“サラリーマン” をそう解釈している。 多少のミスがあってもクビになることはないし、 死活問題にもならない。腹さえ括れば、 こんなにステキな立場はない。 もちろん世の中にはそんな解釈が通用しないブラックが数多く存在 していることは承知しているが、 最近このフレーズを聞くことがなかったので、 私のような解釈ができる環境が増えたのだろうと勝手に思い込んで いた。

 

けれど、どうやら現実は違っているようだ。 クライアントが言うところの“サラリーマン”には、 どうにもならないという諦めがあり、 カーストに囚われた無力さがある。 自由なんてこれっぽっちも感じない。 昔と何も変わっていないじゃぁないか。「 ワタシもサラリーマンなので・・・」。 そのフレーズをクライアントから聞かされる度に、 同じサラリーマンとしては、悲しくもあり「 もっとサラリーマンの気骨、見せてみろや」と怒りも湧いてくる。 たとえば、「本日は、A案とB案の2種類のデザインをご用意しま した。我々のおすすめはAです」と私。すると事務方の一人が「 私もA案がいいと思うのですが、上がなんと言うか・・・ ワタシもサラリーマンなので、一存では決めかねます」とか「私は A案が良かったのですが、上がB案と申しております。 ワタシもサラリーマンなので、従わざるを得ません」とか。 決して「上と掛け合って、A案を通してきます」とはならない。 すべてがこの調子だった。 プロジェクトチームのほとんどの人間が、 このフレーズを使っていた。チームのトップである役員までもが「 社長に言われたら仕方ないよ。ワタシもサラリーマンなのでね」。 これにはさすがに驚かされた。誰も自分じゃ決められないから、 仕事は滞り、オンスケジュールを保つのも一苦労した・・・。

 

と、ここまでさんざん毒づいてみたものの、「 オメーはちゃんとできてんのかよ」と自問自答してみる。「はい、 できてません」。即答です。企業のなかで自分らしく、 自由に仕事するなんて、なかなかできることじゃないですよね。 私の“サラリーマン”への解釈は、 そうありたいという私の切なる願望であり、 クライアントへの怒りは、ただの同族嫌悪だということだ。ただ、 私は意地でも使わないけどね。「ワタシもサラリーマンなので・・ ・」というフレーズ、こんな惨めなフレーズ。サラリーマンが、 こんな風にサラリーマンを主張しだしたら、もう終わりだよ。

 
 
 

パンチを欲しがるブランドコンサルタント

先日、クライアントとの打ち合わせの場で、 ブランドコンサルタントと会った。その打ち合わせは、 クライアントの新事業の立ち上げに伴うブランド開発をテーマにし たもので、 私の会社はいくつかのコンテンツ制作を請け負っている。 ブランドコンサルタントは見た目30代後半〜40代半ばの女性だ 。(後で調べたら43歳だった)率直に言って“冴えない人” が第一印象である。精いっぱい小ぎれいにしているが、 だいぶくたびれたネイビーのニットスーツ、 型落ちのショルダーバッグ、膨らんだ目の下の涙袋や、 深く刻まれたほうれい線が彼女の冴えなさと、 うさん臭さを際立たせていた。よくもまあ、 こんな奴に自社のブランディングを任せたものだ。極めつけは、 名刺に記されている、 こいつが代表取締役をつとめる会社名がダサすぎる。 ネーミングも、ロゴ化されたデザインも超絶にダサい。私は過去にも、 この手のコンサルタントと何度か仕事をしたことがあるが、 概して大嫌いな人種である。 とにかく自分を売り込むことに躍起で、あらゆるSNSを駆使しな がら薄っぺらいブランド論とゴミみたいなキャリアをひけらかす。 多少のマーケティングとクリエイティブをかじっただけで、 いかにも知っている風を装う。最悪なのは手八丁、 口八丁には長けていて、 クライアントのキーパーソンに取り入るスキルはずば抜けている。 あぁ、大嫌いだ。そんな先入観もあって、 今回の打ち合わせにブランドコンサルタントが同席すると知らされ たときから、もう嫌な予感しかしない。「 ぜったいにグチャグチャにされる」 それしか想像できないのである。こいつには、 もっと上流の部分の整理をきちんとしてほしいのだが「 私のロジックを反映させるわ」 と言わんばかりにアウトプットにも、 生臭い小便ブランド論をまき散らす。残念なことに、 この予感は見事に的中することになる。

 

彼女は当たり前のように長いテーブルの向こう側に座った。 つまりクライアント側である。しかも、 キーパーソンである取締役の隣で「 私がこのクライアントのメシアよ」そんな風にもみえる。 この三流コンサルタントが、えらそうに。 気持ワリーからこっち見んなよ。四流表現者の私は、 打ち合わせが始まる前から、心の中でさんざん毒づいていた。 打ち合わせは、私のプレゼンテーションからはじまった。 コンテンツの考え方から、 具体的な表現にいたるまでを一気に説明する。私は、 正面に座っているキーパーソンと、彼の並びに座る部下5、6名を交互 に見ながら、20分程度のプレゼンを行ったが、その間、 女コンサルタントには一瞥もくれてやらなかった。 私がクライアントの反応を待っていると、 女コンサルタントが口火を切った。「ちょっと2、3質問よろしいですか」。これは想定内である。打ち合わせに、 こういう輩が存在するとき、 クライアントの自社社員が会話の口火になることは稀である。 キーパーソンを含め、みんなそれぞれの出方を伺っている。 いかにもサラリーマン的な振る舞い。 そんな状況で、外部の女コンサルタントがこういう切り出し方をするの は、当然のことでもある。私は少し身構えたが、 できるだけの余裕を醸し出しながら女コンサルタントに向き直り、 穏やかな口調で「どうぞ」と言った。「 こちらの資料に書かれている、アプローチのし方と、 コピー案とはどういう意味なのでしょうか」。 女コンサルタントの質問である。私は思った。「こいつど素人だ」。企画書の読み方も、方向性と表現の違いさえも分からない。 このショーモナイ質問をきっかけに打ち合わせが展開していったの だが、 女コンサルタントは終止キーパーソンにおもねった発言を繰り返し ていた。ある意味、感心させられるのは、どんなに薄っぺらで、 スッカスカな中身であろうとも、 こいつは臆面もなく発言していることだ。くだらなさのあまり、 答えに窮しているこちらが素人っぽく見えるではないか。

 

コンサルタント曰く「うーん、 もう少しビジュアルにパンチがほしいですね」。うわー、 久しぶりに聞いたわ、「パンチ」って。「パンチ、ですか」 極めて冷静な物言いとは裏腹に、 私は誰でもいいからこの女コンサルタントの顔面にパンチを入れて ほしいと強く願った。

 
 
 

誰にでも話しかける友人

9月最初の3連休は山へと出かけた。 約一年ぶりの本格登山である。パートナーは35年来付き合いがあ る友人で、今回の登山の発案者でもある。 気の置けないナイスな漢だ。 友人は私のような年イチ登山のど素人ではなく、暇さえあれば、 しょっちゅう山に入る上級者。そんな友人の、 あくまでも私から見たら「奇行」 とも言える行動がとても気になった。

 

山でのコミュニケーションと言えば、 行き交う人びとの条件反射のような挨拶である。「 おはようございます」、「こんにちは」、「お気をつけて」、「 ありがとうございます」。 人びとは見ず知らずの他人と言葉を交わす。 挨拶に慣れていない私にとっては、 これだけでも十分に心地が悪い。 登山者の清々しいイメージを誰もが、 何の疑いもなく実践している。相手は人間のクズかもしれないし、 ど変態かもしれない。もしかしたら犯罪者かもしれないけれど、 そんなことはお構いない。私も“郷に入っては郷に従え” の精神で、苦手な挨拶をせっせと繰り返す。

 

ただ、挨拶は挨拶であって、 言葉のキャッチボールは一往復でいい。 それ以上のコミュニケーション、 会話への展開はむしろお互いにとってジャマだと思っている。 もちろん山小屋やテント場などで、歩行を終えた登山者同士が、 何かのきっかけで仲良く会話をするのはいいと思う。 私の友人の奇行は、歩行中のほぼ全ての人と、 挨拶以上のコミュニケーションをとろうとすることだ。つまり、 会話をしようとする。「どこから来たんですか」、「 どこまで登るんですか」、「どこに泊まるんですか」。 そんなこと聞いて何になるというのだろう。こうなると、 お互い立ち止って話しをせざるを得ない。山での予定は、 目的地やペース配分よって、人それぞれである。「 一刻も早く先に進みたい」と思っている登山者も多い。 それを足止めさせられるのだから、たまったものではないだろう。 私は、イライラしながらこの様子を静観していた。“ オレも元気なうちに進みたいよ”。 友人のコミュニケーションはさらに続く。「その手ぬぐい、 いいですね」とか「その髪型、カッコいいですね」とか、 相手の外見やファッションをいじるのだ。 もはや山の話しでもない。大きなお世話である。ああ、そうか、 昔から、こういう人間だったよな。悪気はないが、 すこし空気が読めないところがある。きっと、 友人はこの行為を粋だと勘違いしているのだろう。 いけてる山男とでも言いたいのか。私はイライラを募らせながら、 なおも静観している。驚くべきは、 友人に話しかけられた全ての登山者が、 このどうでもいいコミュニケーションに付き合ってくれたというこ とである。友人の話しを、特に遮ることもなく、 丁寧に立ち止って応えてくれた。なんとやさしい事か。

 

そんな光景を見ているうちに、ふと思った。友人のこの行為って、 もしかしたらアリなのか。 山だからこそできる貴重な体験なのだろうか? ちょっと肯定したりもしたけど、 もし自分が話しかけられる立場だとしたら、ぜったいムリである。 さぞ迷惑そうな顔をして、 逃げるように先を急いだことだろう。 話しかけられた登山者が本当のところ、 どう思ったのかは知る由はない。 迷惑に思う人もいたかもしれない。 それこそ山の中のそんな他愛もない会話を楽しんでいた人もいたかもしれない。

 

間違いなく言えることは、私の友人には決して怯まずに、 どんな相手の懐にでも飛び込んでいける能力があるということ。 それは行動力なのか、鈍感力なのか、 はたまた両方なのかは分からない。いずれにせよ、 私には備わっていない能力である。
 
 

プレゼンの振る舞い

私は人とのコミュニケーションが苦手だ。だからこそ、 苦手は苦手なりに、 どんな時でも円滑なコミュニケーションがとれるように心掛けてい る。それは、下手なコミュニケーションをとれば、 必ず自分に跳ね返ってくることを、身をもって学んだからだ。 要は自分のためである。会話でも、態度でも、 相手によほどの欠点がない限りは、相手を慮り、 相手と気持よく接することが大切だと思っている。

 

商談においても同様である。 私はクライアントになって相手の話しを聞く立場になることもあれ ば、スタッフとして話す立場になることもある。言い換えれば、 何らかのビジネスプランを提案される側か、提案する側か。 多少なりとも双方の立場が分かるので、どちらの立場に立っても、 それぞれの自分を思い浮かべ、それぞれの自分に投影しながら、 自分が痛い目にあったり、 失敗したりがないように対処することを身につけた。

 

私が提案される側になったとき、私が期待しているのは、 相手にベストのプレゼンテーションをしてほしい、 という一言に尽きる。あなたに緊張して欲しくないし、 あなたが気持よく、あなたのプランを説明してくれれば、 それでいいのだ。そのために私が実践していることは「ワタシハ アナタノハナシヲ チャント キイテマスヨ」というポーズをとることである。 具体的には相手が話しているとき「たまに頷く」そして「 たまに目を合わせる」。それだけである。 そこに余計な感情は要らない。この動作をするだけでいい。

 

提案されるクライアント側には、やたら偉そうに振る舞う奴や、 全く無反応な奴がいるけど、これは逆効果である。 相手に緊張と萎縮を与えかねない。 そうなるとプレゼンテーターは軽いパニックをおこし、 肝心のプレゼンがヘタクソになる。 聞くに堪えないプレゼンになることだってある。これでは、 せっかく用意された時間がもったいない。相手だって、 商談となれば、それなりの準備はしてくるはず。 こちらの振る舞いしだいで、良い商談にも悪い商談にもなり得る、 ということだ。「怖がらなくていいですよぉ〜、さぁ、 思う存分に話してください」。実に寛容な心持ちだ。

 

つい先日、私は過去最悪のプレゼンを経験した。それは、 残念なことに我々が提案する側であった。とあるクライアントに、 新規サービスのプロモーション戦略を提案したときのこと。 かなり大きな仕事、しかもコンペ案件ということもあって、 クライアントも我々も、ピリピリとしていた。クライアントは10 人、こちらは7人のプレゼン。プレゼンテーターは、 営業部の部長クラスだったのだが、これがひどかった。 殺伐とした空気のなかで、彼は自身を見失い、 極度の緊張のあまり、身体も声も震わせていた。彼のプレゼンは、 同僚の私でさえ何を言っているのかまったく理解できなかった。 口角に白い唾を溜めた痙攣状態に近いその様子は、 オカルト映画さながら、狐狸か悪魔に取り憑かれたように見えた。

 

ちなみに、私がプレゼンテーターだったら、 何人かいるクライアントのメンバーの中で、間違いなく、 いちばん頷いてくれる人か、 いちばん目の合う人に向かって話している。 話しやすい人を意地でも見つけ出す。 承認欲求がそうさせるのだろうが、それで不思議と落ち着くのだ。 先日の最悪のプレゼンの席にだって、 そんなクライアントはいたのに・・・。

 

もちろん、商談やプレゼンは話し方ではなく、 内容がいちばん大切であることは言うまでもない。 提案の内容によって、態度が豹変する人を、私は何人も見てきた。 天使から悪魔になる人もいれば、その逆もまた然りである。

「テレワーク・デイズ2019」終了

「テレワーク・デイズ2019」における、この会社のトライアル的な取り組みが先週の金曜日に終了した。2週間のトライアル期間中、私は3日の在宅勤務を体験した。最初はサボれるかな、なんて考えたけど、真面目にやってみるとなかなか良いではないか。大嫌いな上司や同僚と顔を合わせることもないし、下卑た笑い声を聞かされることもない。寝ぐせの髪のまま、Tシャツ、短パンスタイルで、煙草を吸いながら、自分のペースで作業ができる。案外、仕事がはかどるのだ。「こんなにだらしなくない」とフリーランスの方に叱られそうだが、ちょっとフリーランスの気分を味わえた気がした。性善説で成立する取り組みだとは思うけど、社員一人ひとりが己の裁量で、働き方を選べるなんて、実に成熟した会社っぽい。さあ、トライアルが終われば来週からは実用である。在宅勤務を行う場合、前日の正午までに電子書類で申請をあげ、上司の承認を得るという運用ルールがある。この書類が若干面倒な書式ではあるが、これは受入れることにしよう・・・。そして週が明けると、一通の同胞メールが届いていた。在宅勤務の運用に関するものだ。文面にはこうある。「在宅勤務については、その必要性が認められ、業務上必要と上長が承認した場合のみ許可。電子の申請の前に、その都度○○部長に相談が必要です」。こうもある。「在宅勤務にあたっては、メールでの一時間に一回の業務報告を原則とする」。あぁ、一瞬でもこの会社を信じた自分を呪いたい。「相談」ってなんだよ。「一時間に一回の業務報告」ってなんだよ。結局、この会社は在宅勤務なんてさせる気はさらさらないのだ。社員を信用していないし、管理する自信もないのだ。そのために運用をできるだけ煩雑にして申請をしづらくする。見え見えのやり口。成熟どころかガキである、働き方改革なんて、できっこないよ、この会社には。世の中には、変わるものと、変わらないものがある。この歳になると、変わらないものに触れたりすると無性にやさしい気持になれるのだけれど、変わらないこの会社の愚かさだけは、私をとことん萎えさせて、深淵のダークサイドに誘うのだ。

「テレワーク・デイズ2019」はじまる

今日7月24日は来年の東京オリンピックパラリンピックの開会式のちょうど一年前にあたる日だ。この日を目指して、社会のさまざまな場面でテスト(実験)が行われている。首都高速が通行規制されたり、移動式の交番が繰り出されたり。交通渋滞の緩和も市民の安全確保も、対策はこういうイベントがないと進化しないのかな、と思う。私たちサラリーマンもまた、この実験の対象となっている。「テレワーク・デイズ2019」という。東京オリンピックパラリンピックの会期中の交通混雑の緩和と働き方改革の推進を目的に国を挙げて取り組まれている。要は、電車やマイカーを利用して出社するのやめようじゃないか。という話である。じゃあ、会社の近くに住んでいる社員は、徒歩や自転車で出社すればいいんでしょ。とツッコミたくもなるが、そうはいかない。なぜなら、「働き方改革」という大義名分がくっついてるからである。例外は許されない。普段、電車通勤している社員も、徒歩で通勤している社員も「テレワーク・デイズ」に参加しなければならないのだ。よって、本日の弊社は全社員が在宅勤務かシェアオフィス勤務が義務付けられている。雨が降ろうが雪が降ろうがジテツーを貫いている私もまた本日は在宅勤務である。自宅のWi-Fiを利用して、パソコンをリモートで会社のネットワークにログインしていれば出社扱いとなる。そして業務が終了すれば、ログアウトして、メールで管理者に業務終了の旨を報告するだけである。これをこの2週間で4回やる。自宅にいながら拘束されているって、不思議な感覚である。もちろん、普段でも仕事を持ち帰ることはある。けれど、それは私個人の裁量で行っているもので(本当はこれがいけないのかもしれないが)会社に拘束されるものではない。私のようなおじさんにはとても落ち着かない感覚である。自由なようで自由じゃない。自宅にいながら、監視されているような気がしてならない。「他のみんなはどうしてるんだろう」と思ってしまう。「ちゃんと仕事できてるのかな」。中には休日感覚のやつもいることだろう。私も正直、昨日までは、サボって高校野球でも観に行ってやろうか、などと考えていたのだが思いとどまることにした。こういうことに慣れていない会社だから、やるとなったら徹底的に管理するかもしれない。スマホGPSを使って社員の居場所を追跡するとか、もしくは抜き打ちで上司が電話をかけてくるとか・・・。そのとき電話口の後ろでコンバットマーチモンキーターンが炸裂していたら、それこそアウトである。まさかとは思うが、初回だし、様子見の意味でも今日は大人しく自宅でパソコンに向き合うことにした。会社の始業時刻である9時30分にパソコンを立ち上げ、会社のネットワークにログインする。メールを一通りチェックしレスポンスしているとスマホに着信があった。見慣れない電話番号である。「もしもし」恐るおそる電話に出ると上司だった。やってやがる!「どうですか、なにか不都合はありますか?」だって。なんだかねぇ。社員を仕事の質で評価できるような会社じゃないと、こういう働き方は無理なんだと思った。ペーパーレスを推奨しながらその稟議書を紙で周知しているような会社だ、どうせうまくいきっこないさ。そんなに社員を管理したければ、テレワークなんて止めちゃえばいいのに。せめて、希望制にするとか、監視に耐えながらこの働き方で生産性を高められると自負しているやつらだけにやらせてくんないかな。あぁ、余計ストレスたまるわ。

「10連休のゴールデンウィークは要らない」と思う理由について

ゴールデンウィークの10連休は必要か』そんな議論が起きているのは知っている。正直どうでもいいと思う。答えなんてあるわけがない。必要だと思う人には必要だろうし、必要ないと思う人には必要ないのだろう。どちらの人にも言えるのは、この国の政府が定めたことに従うしかない。ということだ。そういう意味では、議論すること自体がナンセンスな気もする。あくまでも個人としての意見を持っているか、どうかでしかない。ちなみに私の場合は、「必要ない」である。これは連休後の感想ではなく、政府が閣議で決定したときから「要らない」と思っていた。10連休を必要と感じる人って、特別な事情があれば別だが、仕事とお金に余裕がある人か、よほど時間の使い方が上手な人な気がする。悲しいかな、私はどちらにも当てはまらない。私の10連休は、ほぼ昼間から自宅でNET FLIX もしくはYou Tubeをつまみに酒精に溺れるものだった。寝落ちして、覚醒すればまた酒精を求めるという自堕落な日々を送っていた。お金もない。人ごみに出る気もない。読書もしない。自己研鑽に時間を費やすこともない。あるのはゴールデンウィーク前にカクヤスで大量購入した黒ホッピーと金宮の焼酎だけ。お世辞にも時間を上手に使ったとは言えない。一つ言っておくが、本来、私はこういう自堕落な暮らしが好きなのだ。10連休だって苦ではない。もっと休んで、堕ちてゆきたいくらいだ。・・・それにしてもだ、やっぱり10連休は必要ないと思っている。だって自堕落がつづけば、いつもの「日常」に戻れなくなりそうで怖いから。にわかに注目されている中高年のニート、引きこもり・・・。“そちら側”にはいつでも行けると自覚しているから。普段の私は、どうにかこうにか“そちら側”に行かないようにと、自分にブレーキをかけているだけだ。今回の10連休は、私を“そちら側”にかなり近づけた。あー、あぶない、あぶない。

「キャバリア」という犬の名前がどうしても出てこないひと。

先週の休日、娘(愛犬)を連れて近所を散歩していた。娘を連れていると、2回に1回は見知らぬ人に話しかけられる。もちろん、これらの人びとは娘に関心があって、娘を目がけて近づいてきて、話しかけてくる。第一声のほとんどは、娘の容姿をみて「かわいいですね」と、ほめてくれるものだ。満更でもない私は「ありがとうございます」となけなしの笑顔を振りしぼって応えている。そして、このやり取りの後に続くのは、たいていは娘の犬種についてである。「なんという犬種ですか」などと聞かれるのだ。うちの娘の正式な犬種名は『キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル』。知名度的には、中の下くらいだろうか。世間では「キャバリア」という略称で通っている。この犬種を知っている人なら、「キャバリアですね」とか「キャバちゃんですよね」というリアクションで接してくることが多い。その日もそんな雰囲気だった。学生らしき二人の若い女性が前から歩いてくる。二人の視線は20メートル前方から、すでにうちの娘にロック・オンしている。やがて二人は足を止め、うちの娘に向かって「かわいい」と言ってほめてくれた。「この子なんていう犬だろう?」片方の女性が、もう一人の女性に向かって聞いた。すると聞かれた女性は「うん、わかる、アレだよ、アレ・・・」。その名前を知っているようだが、なかなか口に出てこない。私が聞かれたわけではなかったので、しばらく静観することにした。というか、この女性に花を持たせてあげたいとも思った。友だちの前でちょっといいとこ見せられるのではないか。そんな老婆心も手伝っていた。「・・・んとね、アレ・・・」。脳の海馬を刺激して、懸命に記憶を呼び起こそうとしている。たった数秒のことだったが、やたらと長い時間に感じたのは私以上に、この女性だったろう。そろそろ助け舟を出そうかな、なんて思っていたその矢先、彼女はハッとした表情を浮かべると興奮気味にこう言い放った「そうだ、チャールズ!チャールズよ!!」。度肝を抜かれていた。うちの娘を飼って12年。この手のコミュニケーションはたくさんしてきたが「チャールズ」と言われたのは初めてだ。「チャールズ?」と連れの女性は明らかに怪訝そうである。するとチャールズ女性は、自信がなくなったのか、私の方に振り向くと同意を求めてきた。「・・・ですよね?」。私はとっさに「そうです」とこたえていた・・・。犬の名前なんて、覚えなくても生きていけるしね。それよりもこの場面では、彼女の面目を保ってあげたほうがよさそうだ。まあ、間違ったこたえではないし、今日のところは、これでいい。願わくは、彼女がこの先、どこかで「キャバリア」を思い出してくれれば、尚、それでいい。