街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

とあるクライアントの節度

いま、ある企業と仕事をしている。私の会社はこの企業の広告、宣伝業務を請け負っている。言わばクライアントと業者の関係である。私個人としては、約5年ぶりに担当をつとめる。この企業は電力、エネルギーをドメインとしていて、昨今の社会事情から言うと決して溌剌と商業経営に打ち込めるような雰囲気にはない。かわいそうだと思う。それはこの企業が私のクライアントだからではなく東日本大震災以降、この手の企業が十把一絡げで「ヒール」として取り沙汰されることに不条理を感じるからである。私はこの企業が好きだ。私がこの企業のことをどれほど理解しているのかは分からないが、業務を請け負うくらいに必要なことは知っているつもりだ。この企業のポリシーやテクノロジーCSRなど、感心させられることは山ほどある。これはあくまでも私の主観だが、とにかく生真面目で実直なのだ。チャラついた要素がひとつもない。それは「不器用ですから」とコマーシャルで語った高倉健さんの役者像にもどこか似ている。真面目で、企業としてのいいところはいっぱいあるのにエネルギーを扱う企業であるが故に、上手く自社をアピールができないところが健さんのそれとよく似ている。いくつもの企業と仕事をしてきたが、こんな企業は他に記憶がない。この企業、組織としても真面目なのだが担当者はこの企業にあってこの社員、というくらい真面目な人たちである。打ち合わせをしていても、奢ったところがない。謙虚でやはりどこか不器用さが漂っている。とある打ち合わせのときの担当者の反応が忘れられない。担当者は30代半ばと思われる女性である。この担当者、とにかく口数が少ない(この女性に限らずここの人たちは一概に寡黙である)。そして表情が乏しい。くだらない理屈をグイグイ押し付けてくるクライアントに慣れてしまっているので、つい、拍子抜けしてしまうくらいだ。私は彼女に向かって、こんなことを言った「御社の企業努力は本当に大したものですよ、それは誇っていいことだと思います。臆することなく世の中に知らしめていきましょう」と。それは決してお世辞ではなく、私の本心である。すると、彼女は俯き加減に少しだけ微笑んで、小さな声で「はい」と応えてくれた。なんか、いい光景だなと、思った。そこには自分の点数稼ぎや保身や狡さなんて微塵もない、外連味のない姿があった。自分の会社を想い、置かれている立場を憂いている。ある意味サラリーマンの鏡ではないか。「この人たちのために、いい仕事をしよう」改めて、そう思うのである。もう一つ気づいたことがある。このクライアントの人たちが寡黙なのは、私たちを信じていてくれるからである。要は「餅は餅屋」ということだ。ここに信頼関係が生まれる。人はついつい仕事に自分の痕跡を残したがるものだ。それは犬のマーキングのようなもので、やらないと気が済まない「犬のしょんべん」だ。仕事のできない奴が、仕事をした気にさせるまったく無意味な行為である。それをここのクライアントはしない。なかなかできることではない。