街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

ウチのかわいい娘は、いろいろな事を教えてくれる。

私には10歳になる娘がいる。

親バカを承知で言わせてもらえば

とても気立てが良く、美形にして、誰からも愛される娘である。

いっしょに街を歩けば、誰もが娘に注目し「わぁ、かわいい!」と

思わず声にしてしまう。たとえ声にしなくとも

娘を見るやさしい目が、それを物語っている。

どこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘なのである。

 

娘の名前は「ハンナ」

キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル「犬」である。

犬が苦手だという方、犬が嫌いだという方は眉間に皺を寄せるだろう。

でも、ご安心ください。

こんな書き方をすると、私を狂信的な愛犬家だと思うかもしれないが

決してそうではありませんから

私はハンナを愛し、実の娘のように思っているが

それはあくまでも内向き、つまり家庭内に限った話しであって

社会の中ではきちんと「ヒューマン ファースト」を心がけながら

責任あるオーナーに徹している。

家の中では「お父さん」だが、外に出れば「飼い主」となるのだ。

私はハンナと暮らすようになってから、勘違いの甚だしい飼い主をたくさん見てきたが

そういう人たちとは違うと自負している。

そんな飼い主の勘違いや、歪んだ愛情は社会ではトラブルの原因になる。

私は決してハンナをトラブルに巻き込みたくないし

社会の迷惑や、敵にはしたくない。だから私自身が、飼い主としてのルールを守り

慎ましく、でも堂々と「犬のいる暮らし」を楽しんでいる。

こんな風に考えられるようになったのも、ハンナの存在があるからだ。

彼女といろいろなことを経験したからだ。

 

ハンナは私に多くのことを教えてくれた。

価値、感情、社会性、それは目に見えないものがほとんどだが

すべてが私の財産となった。

たとえば、「無償の愛」という言葉があるが、ハンナと暮らすまでは

まったくピンとこなかった。というか、そんなものこの世にはないと思っていた。

(実の親のそれともまた違うのだが)

ハンナは私が仕事に出かけるときは、玄関まで見送ってくれるし

私が帰宅したときは、全力で出迎えてくれる。

「お仕事ご苦労さま!」「寂しかったんだから!」と目で訴える。

そうして、大きく尻尾を振って、抱っこをおねだりし、顔を舐めてくれる。

これはもう儀式のようなもので、大袈裟ではなく年中無休でこれをやる。

決して、下心や打算はない。

犬のこういう行為を「うっとおしい」と言う人もいるらしいが

私にとっては、とても幸せな、かけがえのないひと時なのである。

会社から持ち帰ったストレスは、一気に吹き飛び、それはそれは癒されるのだ。

時々思う。もしハンナと出会っていなかったら

私はこの10年の間に、精神疾患で入院していたか

犯罪者として刑務所に収監されていたか

何もかも失ってホームレスになっていたことだろう。

私はハンナの「無償の愛」のおかげでギリギリ今を保てるのだ。

 

他人への「寛容」を教えてくれたのもハンナである。

彼女を迎えて2年ほど経ったある休日の事

私もハンナもすっかり、散歩のお作法も身につけていた頃の話しだ。

私と家内はハンナを連れて、近所を散歩していた。

散歩のときはいつもお散歩バッグを持参する。

バッグには、彼女のウンチを拾うためのティッシュ、それを入れるためのビニール袋

道路をきれいにするための水が入ったペットボトル(オシッコも流す)が入っている。

ハンナはもちろんウンチもオシッコもするので

散歩時には欠かすことのできないアイテムだ。

飼い主の責任を果たすためのアイテムでもある。

お散歩コースの歩道は、広すぎず、狭すぎず

犬一匹を散歩させるのに、何の問題もない歩道である。

それでも歩行者の迷惑にならないよう、できるだけ端を歩かせる。

前方に対向者(おばさん)の姿を確認

私は、ハンナのリードをさらにたぐり寄せる。

その時、ハンナがウンチをした。

何度も言うが、歩道の真ん中でしたわけではない。

端っこで、お行儀よく、生理現象をこなしたに過ぎない。

私は対向者のおばさんのジャマにならないように

お散歩バッグのアイテムを駆使してウンチを片付けていた。

すると、このおばさんが、すれ違いざまにこう言い放った。

「わぁ、汚いもの見ちゃった」

嫌悪感丸出しで、私たちに聞こえるように言い放ちやがった。

一瞬で頭に血がのぼった私。反射的に声が出た「あ?」

そこまで言われなければならないのか?

そう思ったとしても、心の中に止められないのか?

わざわざ声に出して言うことなのか?

いつもなら怒りの感情に任せて

「お前のウ◯コの方が、百万倍汚いわ!」

怒鳴りつけているところだ。

けれど、視界の端にハンナが映った。

私のただならぬ様子を察し、心配そうにこちらを見つめている。

「お父さん、怒らないで」って、言っているような気がした。。。

気持ちがスッと鎮まり、我に返る。

これは、愛犬家と嫌犬家(けんけんか?)がたまたま道端で遭遇しただけの話しであって

世の中には、こういう人もいるということだ。

今でもハンナが教えてくれたのだと思っている。

最悪のトラブルは避けられた。

このおばさんがどうして犬を嫌うのかは分からない。

ルールを守らない飼い主の愚行が原因かもしれない。現にそんなデータもあるらしい。

愛犬家にも、嫌犬家にも愚行を働く人はいるが

おばさんの言動は明らかに嫌犬家の愚行であると思う。

けれど私はそれを許すことができた、かわいい娘のために寛容になれたのだ。

この出来事は、私に飼い主の責任を強く意識させるきっかけになった。

「愛犬家として愚行は、働くまい」

そして、他人との間合いの難しさを、改めて思い知らされる出来事でもあった。 


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子どもがギャン泣きするバスの車内での出来事

「子どもは泣くのが仕事」とはよく言ったものだ。

子どもは泣く。時と場所を選ばずに泣く。そう、仕事なのだからしょうがない。

けれども、いつまでも泣き止まない子どもを見ると

何がそんなに悲しいの?と思いたくもなる。

日々の暮らしの中で、そんなシーンに出くわすことも度々である。

お腹がすいた? どっか痛い? 抱っこしてほしいの? 

オムツが汚れてるの? おじさんが怖いの?

言葉が話せるくらい大きくなった子どもであれば

コミュニケーションの一つもとれるだろう。

しかし、泣くことでしか自分の置かれた状況や、切なる要求を表現できない小さな子どもには

確かめようもない。それでも、子どもを観察し、ちょっとした手がかりを探り出し

我が子のギャン泣きに何らかの対応を施し、泣き止ませている親御さんには

いつも感心させられるのだ。それは親としての経験値なのか、テレパシーなのか

本能というやつなのかは、子育てをしたことのない私にはよく分からない。

いずれにせよ、かなりのスキルだと思う。

だがそんな能力者のような親御さんにでも、どうにもならない時もある。

どうしても泣き止んでくれない我が子を前に途方にくれてしまうこともある。

先日、外出先で出会った親子もそうだった。。。

 

私は路線バスに乗っていた。週末の夕方である。

自宅近くのバス停から、終点の最寄り駅まで、4つの停留所。通常であれば20分の道のりだ。

その親子は私が乗った次のバス停からの乗客だった。

20代と思しきママがベビーカーを押して車内に乗り込んで来た。

ベビーカーには1歳くらいの可愛らしい女の子が、ちょこんと納まっている。

私は最後部の座席のセンターからその様子を見るともなしに見ていた。

車内の乗客は30人ほどいただろうか、座席はほぼ埋まっている。

ママ座れるかな?と一瞬思ったが、降車口付近に1人掛けの空席を見つけたママは

ベビーカーを座席の脇に、ストッパーで固定させ着席することができた。

私とベビーカーの間の通路には他の乗客も荷物もなく、自然と対峙する形になった。

その距離は3メートルくらいだろうか。

やがてバスは幹線道路に入ったところで渋滞にハマった。

週末の夕方、ある程度予想はしていたが、その日は特にひどかった。

ぜんぜん動かない!歩道の通行人が気持ちよくバスを追い抜いていく。

車内の空気が重くなっていくのがわかる。

誰もがこのどうしようもない状況にイラついていた。

やり場のない怒りは、乗客を無口に変え、車内は静まり返った。

最近のバスは停止時にアイドリングをしないため、静寂が際立つ。

私がバスに乗って30分、バスはまだ半分の道程にあった。

いつもならとっくに着いてるのに!私もイラついていた。

すると車内の静寂に一つの変化が起きた。

ベビーカーの女の子がぐずりだしたのである。

ママは懸命に我が子をあやしていたが、一向に機嫌は良くならない。

機嫌が良くなるどころか、女の子はベビーカーの中で身悶えしながら泣き始めた。

オモチャを渡しても、おやつを食べさせようとしても

泣き止むことはなく、それはギャン泣きとなった。

ママは席を立って抱っこしようとするも

「危ないですから立たないでください」と運転手に制される。

「動いてないんだからいいじゃん!」乗客のみんなが思ったはずだ。

車内の空気はさらに重苦しくなった。子どもの泣き声に支配された乗客たち。

寝たふりを決め込む者、窓の外を眺め現実逃避する者

露骨にイヤホンを取り出す者とそのリアクションは様々だが

明らかに「苦痛」を感じていた。その一部始終を私は見ていた。

(ハイ、私だって「苦痛」を感じていた乗客の1人です。それは認めます)

そして、何よりも理由は分からないけど車内で一番「苦痛」を感じていた(であろう)

女の子を見ていたのだ。

私は半ば投げやりな気持ちでこの女の子に手を振ってみることにした。

すると女の子が一瞬泣き止んだのである。

「えっ、何」って顔をしている。でも女の子はまたすぐに泣き出す。

私はさっきよりちょっと大きく手を振る。するとまた女の子が泣き止む。

そしてまた泣く。それ以降、私の手振りは通用することなく

結局女の子は終点まで泣き続けたのだ。

終点まではほぼ1時間かかった。

女の子は30分間泣き続けたことになる。さぞ、疲れた事だろう。お疲れさまでした。

ママも乗客のみなさんもお疲れさまでした、私も疲れました。。。

 

バスを降りるとき、女の子のママが私に向かって会釈してくれたのには、救われた。

ママの良心に触れた気がして、ちょっとほっこりしたのだ。

別に私のしたことが特別な行為だとは思わないし

感謝してもらうつもりでしたことでもない。ただ、この出来事で感じたのは

昔は子どもが公共の場で泣いていたりすると、必ず「お嬢ちゃん、どうしたの?」とか

「ボク、いい子だねぇ」とか言って、あやしてくれる大人が周りにいたものだが

そういう人がいなくなりつつあるということだ。

他人の子どもと接点を持とうとすることが異常視される時代

だということも理解できるけれど、なんか寂しい。。。

「子どもは泣くのが仕事」

そういえば、最近は聞かなくなった気がする。

それはきっと、泣いている子どもをきちんと受けとめられる社会が

無くなりつつあるからなのかもしれない。


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『サラリーマン川柳コンクール』30年超の歴史で変わったものと変わらないもの

先日『サラリーマン川柳コンクール』のベスト10が発表された。

第一生命保険が主催するこのコンクールは、今年で31回を数える。

「毎年、楽しみにしています!」というほど

このコンクールに思い入れはないのだけれど

毎年必ずといっていいほどニュースでとりあげられるので

ついつい見てしまう。社会の風物詩の感さえ漂う。


作品は伝統的に、社会と世相を取り入れた自虐ネタとナンセンスを扱うものが多い。

人の幸せと常識は、なかなか作品としては評価されづらいものだ。

もちろん、世相としての「ネタ」は毎年変わるのだが

作品の基本構造は、昔から変わっていない。

評価する一般大衆の評価基軸も変わっていないと思う。


今年の1位の作品は

『スポーツジム 車で行って チャリをこぐ』

昨今の健康志向とその矛盾のナンセンスをネタにしている。

腹を抱えて笑うほどではないが、クスッとさせられる。

いわゆる「あるある」が上手く表現されている。

今年、私が支持した作品はというと

『効率化 進めて気づく 俺が無駄』

職場の効率化をすすめる中間管理職の悲哀を自虐で表現。

全体の4位にランクされた作品だ。

うん、上手いものだ・・・。


思わずハッとした。

30年をこえる『サラリーマン川柳コンクール』という営みのなかで

変わっていくのは、読み手(読者)の意識である。

いや、読み手の意識というより、読み手そのものなのだ。

(書き手そのものも変わっているのだが)


30年前、『サラリーマン川柳』が誕生した頃、私は20代の学生だった。

貧しくて、ただ貧しくて、学費と生活費を毎日のバイトで賄っていた。

けれど、漠然と夢は見ていたし、将来の自分に期待をしていた。

「大人になれば、こんな世界から抜け出せる」

そんな、当時の私が『サラリーマン川柳』の作品を見て

感じていたのは、こういうことだと思う。

「ダッセーな」とか「こんなサラリーマンには、ぜったいなるもんか」

・・・・

つまり、1ミリたりとも共感していなかった。

というか、共感なんてしたくなかった。


余談だが、古谷三敏さんの漫画に『ダメおやじ』がある。

家庭でも会社でも虐げられる中年サラリーマンの話しだ。

この漫画は子どもの頃の私にトラウマを与えるのだが

サラリーマン川柳』は、『ダメおやじ』に重なるように思えた。


そして、30年後・・・

サラリーマン川柳』の作品に共感している私がいる。

いつからそうなったのかは、分からない。

きっと、30年という長い時間のなかで

色々な経験をして、色々な事を感じて、少しずつ、少しずつ

私自身の何かが変わったのだろう。

共感することが、良いことなのか悪いことなのかを

判断するには、もう少しだけ時間がほしい。


ちなみに、今年の1位の作品の書き手(作者)は

60代の男性である。

その洞察力と表現力、そして何より

コンクールに参加しようとする行動力に、敬意を表します。

本当に、おめでとうございます。


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日大アメフト部の問題を見て「潰す」と言われた自分を思い出す

潰す(つぶす)。

今、最も注目されているコトバの一つだろう。

肝を潰す、時間を潰す、面目を潰す・・・。

日常的に使われるコトバではあるけれど

そこに悪意が込められると、とたんに怖いコトバになる。

大きな社会問題となった日大アメフト部の選手による

悪質なタックル問題の中で争点となっている

クォーターバックを潰せ」の中に

故意にケガをさせろ、という悪意があったとしたら

それは恐ろしい。

けれど、考えてみると人間を対象に「潰す」を使うときは

大なり小なりの悪意を伴うことが多いのではないだろうか。

空き缶やニキビに対して使う「潰す」とは違う。

「てめぇ、このニキビ、潰すぞ」とはならない。

その悪意が、どれだけ邪悪かどうかだ。

日大アメフト部の問題では

度を超えた悪意を伴った「潰す」だったということだ。

主に体育会や喧嘩のシーンで使われることの多い

人に対しての「潰す」だが

これが職場で使われると、それはそれで恐ろしい。

コンプライアンス全盛の今でこそあまり

聞かなくなったが、一昔前は確かに存在した。

私は、サラリーマン人生の中で、2度

悪意のある「潰す」を体験している。

今思うと、両方とも交通事故みたいな出来事だった。

1度目は、私が入社して間もない頃の話しだ。

その日はクライアントへの企画プレゼン。

平平の私は企画書とプレゼン用のボードを抱えながら

先輩に連れられクライアントへと向かった。

それは、私にとって初めての経験。

私自身がプレゼンするわけではないのだが

段取りとか、お作法のようなものがまったく

分かっていないので、不安でたまらない。

先輩からは「お前ボード担当な」とだけ言われていた。

プレゼンテーターの説明に合わせて

企画やデザインが拡大されたパネルを

クライアントに向かって掲げるのがボード担当の役目だ。

プレゼン会場に到着すると

「お前はここに立ってボード出して」という先輩の指示で

「あ、わかりました」とスタンバイ。

すでに緊張で足が震えていた。

この日のプレゼンテーターはフリーのディレクター。

厳しい人で有名で、業界内でも恐れられるほどの重鎮だ。

いよいよプレゼンがはじまった。

失敗しちゃダメだ・・失敗しちゃダメだ。(エヴァ碇シンジ風)

私は全神経を集中させて、プレゼンテーターの声に耳を傾ける。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

ん?

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

き、聞こえない!

この人、めちゃくちゃ声が小さい。

終止ボードを出すタイミングがズレまくった私。

結局プレゼンも締まりのないまま終わった。

で、プレゼン会場を出た瞬間にディレクターに言われた。

「お前、潰すよ」って、小さな声で言われた。

さすがに先輩たちは同情してくれたけれど

本当に怖くて、死ぬかと思った。

このディレクターの「潰す」にどんな意図が

込められていたのか、知る由もないが

「業界から抹殺してやるよ」くらいの悪意はあっただろう。

そして2度目は入社して3、4年目の頃

会社を辞めた先輩に久しぶりに再会した時

挨拶のつもりで、私から声をかけた。

「◯◯さん、ちょっと太りましたか?」って。

そうしたらいきなりの「お前、潰すよ」・・・だ。

明らかに「殴ってやろうか」の「潰す」だった。

私も無神経だったのだろう。

先輩、よっぽど機嫌が悪かったのかもしれない。

でも、こうなるとわけが分からない。

どこに地雷があるのか分からない。

・・・コミュニケーションはむずかしい。


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社内情報の錬金術士とその処世術

社内情報の錬金術士がいる。

社員の人間関係、社内恋愛、出世レース・・・。

ゴシップからオフィシャルに至るまで

多くの社内事情に精通している40代の女性。

職場ではデスクを担当している。

この女のコミュニケーション力はかなり高い。

デスクという立場上、他部署のハブとして

機能するため、社内のいたる所に顔が利く。

そして、人当たりの良さを武器に

おやじ世代を中心にした独自のコミュニティを

複数ライン形成している。

典型的なおやじ転がし、おやじホイホイだ。

それぞれのコミュニティは「飲み会」というカタチで

この女の貴重な情報収集の場になっている。

そこで得た社内情報を社内で生きる糧にしている。

おやじの中には経営に近い立場の人間も

いるので、この女は侮れないのである。

女は情報をコミュニティ間で対流させて

自分の存在感を強める。

つまり、Aのコミュニティで得た情報を

Bのコミュニティに提供しつつ、新しい情報を得る。

それをCのコミュニティに提供して、新しい情報を得る。

それをまたAのコミュニティに提供する・・・。

この情報の対流を永遠と繰り返しながら

コミュニティの数を増やし、さらに拡大させていく。

(もちろん、飲み代もおやじにおごらせる)

これが、この女の情報練金術だ。

私も、この女の練金術のカラクリを知る前は

同僚としての付き合いがあった。

この女の情報収集の場だとも知らずに

飲み会にも参加した・・・。

ある日、私の飲み会での言動が

別のコミュニティに筒抜けだと知らされた時

(別の同僚が教えてくれた)

気分が悪くなって、吐きそうになった。

私の言動が、ゴシップネタにされたのである。

しかも、内容はかなり歪曲されていた。

発信元はもちろん錬金術士だ。

それ以来、仕事以外でこの女とは関わらないようにしている。

ちなみにこの女の見た目は、ブス

それは、私の主観ではなく、弊社の男性社員を

代表して主張してもいい。

ブスの統計があるなら参照してもらえばいい。

けれど、不思議なことに

性格だけはいい?と思われている。

みんな人当たりの良さに騙されているのだ。

おやじは特に騙される。

人付き合いが生命線になっているから

基本、人に嫌われないように振る舞うのだ。

権力のある人間に対しては、特にそうだ。

どうして気づかないのだろう、と思うが

きっと、気づかせないのが

この女の世渡りの上手さなのだ。

今宵もどこかのコミュニティのおやじを相手に

社内の情報を小出しにしながら

おいしい酒をおごらせているのだろう。

そうして新しい情報をゲットしてほくそ笑むのだろう。

一切関わりたくないから、私は沈黙する。

でも、本当は叫びたい。

指を指して叫びたい。

この女、顔もブスだけど、性格もブスなんだぜ!

・・・言える訳がない。

あぁ、もどかしい。


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自分を覚えていてくれるという幸せ

この世から、自分の存在が

こつ然と消えてしまったら

どういうことになるのだろう?

答えはカンタン。

まったく何にも変わらない。

そんなことは、とっくに知っている。

だからこそ、いま、私が存在している世界での

私の「現在地」が気になったりもする。

早い話が

人付き合いに面倒を感じながらも

人から忘れられることが怖いのだ。

存在しているのに

存在していないかのように扱われるのが

恐ろしくてたまらないのだ。

人間として未熟だと思うが

こればかりはどうしようもない。

そんな自分だから、普段の暮らしの中で

自分が認識されている事を感じると

ほっこりしたりすることもある・・・。

 

私がよく利用する職場近くのコンビニに

愛想のいい、ちょっと変わった店員さんがいた。

日本人男性で、歳は30代半ばといったところか。

その店員さんのレジに当たると

「いつもありがとうございます」

と必ず声をかけてくれる。

覚えていてくれるのだ。

そうするとこちらも

「今日は暑いですね・・・」

なんて、社交辞令の一つもすんなり出てくる。

私はこのコンビニで煙草を買う事が多い。

「◯◯◯(煙草の銘柄)をください」と私。

「はい、どうぞ」と店員さん。

これが基本のコミュニケーションだ。

しかし、この店員さん、いつしか

私がレジの前に立つと、条件反射のように

頼んでもいない煙草を持ってくるようになった。

サービスのつもりなのだろう。

「覚えていてくれるんですね、すごいですね」と私。

すると「いいえ、そんなことないっす」と照れながらも

店員さんはとても得意気だった。

「ありがとうございました」の代わりに

「お仕事、がんばってください」

と言って送り出してくれる。

まあ、私がいつも煙草を買いたいわけじゃない。

考えてみれば、おせっかいな話しだ。

サービスの本質を履き違えているのかもしれない。

けれど、この店員さんのサービス精神を

無下にするような気がして

「煙草、いりません」とは言えなかった。

そうして私は

店員さんが黙って差し出す煙草を買い続けた。

私を覚えていてくれる人が、そこにいる。

結局、それで、私も満足だったのだ・・・。

こんな些細な交流が1年ほど続いたある日

いつものようにコンビニへ行くと

その店員さんの姿がなかった。

休みかな?

次の日も、その次の日も、週が明けても

店員さんの姿はなかった。

気になったので

コンビニの他のスタッフに聞いてみることにした。

すると、急に辞める事になったのだという・・・。

もちろん理由なんて分からない。

私はこの店員さんについて何も知らない。

(名札で苗字は知っていたが)

個人的に特別な感情もない。

私たちは、ただのコンビニ店員と客に過ぎない。

けれど、この一件は私の胸をざわつかせた。

それは、決して寂しさではない。

私の周りから、私を覚えていてくれる人が

一人いなくなってしまった・・・。

それは、そんな喪失感だったのかもしれない。


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満員電車がコワすぎて

満員電車はコワい。

満員電車を好きな人はいないと思う。

(痴漢とかスリとか変態じゃない限り)

オヤジの吐息、べた付いた他人の地肌、フケだらけの肩

香水、柔軟剤、オナラの匂い・・・etc. 

もう、これだけでも、うんざりだ。

人は自分の80㎝以内に他人が近づくと

ストレスを感じるのだそうだ。

隙間のない満員電車では

感じるストレスも、さらに大きい。

殺気立っている人も多いからトラブルも起きやすい。

「押すなよ」「押してねぇよ」

なんて、よく見かける光景だ。

「次の駅で降りろよ」「上等じゃねぇか」

そんな風に発展する事も。

私にも覚えがある。

満員電車の最大のストレスは

こういうトラブルに巻き込まれる可能性が

誰にでもあるという事ではないだろうか。

みんなそれを分かっているから

周囲との間合いに、余計に神経を使う。

(痴漢に疑われたくないのもそうだ)

そして、さらにストレスが溜まる。

こんな負のスパイラルがだめで、心が荒む。

というか・・・

私みたいな人間は、特にダメなんだと思う。

トラブルが起きやすい。

いや、起こしやすいと言ったほうが正しいか。

それがコワいのだ。

そのくらいの自覚はあるのだ。

4、5年前だろうか、決定的な出来事があった。

とある日の朝、通勤時の話だ。

私はいつものように、自宅の最寄り駅から

混雑率200%以上の電車に乗ろうとしていた。

電車が到着。降りる客はいない。

すでに、トビラ付近まで人が溢れている。

そのトビラから乗る客は、私を含めて10人ほどだ。

先頭の私は、溢れる人を背中で押し分けながら

車内へ体を滑り込ませる。

その時、ふくらはぎの当たりに何かが当たった。

と同時に「いたい」という子どもの声。

足元を見ると、そこには3歳くらいの女の子が立っていた。

女の子は母親の脚にしがみついている。

うそだろ? 

こんな小さな子どもを、こんなくそ満員電車で

立たせている母親の神経を疑った。

それでも「ごめんね。痛かった?」と女の子に。

そして「すみません」と母親に頭を下げた。

女の子にケガはなさそうだ。

・・・と、ここまでは良かった。

するとこの母親、ねちねちと文句を言いはじめた。

それが、私に言うのではなく

私に聞こえるように、私への当てつけで

自分の子どもに向かって話はじめた。

「痛かったわねぇ」「怖かったでしょ」「危ないわよねぇ」

そんな感じでいろいろと。

アホらしかった。けど我慢できなかった。

あなた、こんな満員電車にお子さんと乗るのなら

お子さんを抱っこしたらどうですか

あなたのしてることは、とっても非常識ですよ

お子さんが可哀想です」

こんな内容の事を、オラオラ調で言ってやった。

・・・ここは満員電車の中である。

おそらく、2メートルくらい先の人には聞こえていただろう。

結局、この親子は次の駅で降りていった。

私も気まずさから、その次の途中駅で電車を降りた・・・

今でもこの母親の行動は非常識だと思っている。

それにしてもだ、自分も如何なものかと思う。

相手は子連れのか弱い女性だったのだ。

そこまでやるか?という思いがある。

いずれにせよ、満員電車ではこんなことも起きる。

だから乗るの止めた。

この出来事のあった次の日から

私はチャリンコで通勤している。

チャリンコサイコー。


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言葉の殺傷力

「お前、殺すぞ」

私のしくじりコミュニケーションの一つ。

私が口にしてしまったリアルな言葉。

もう20年以上前の話しだ。

相手は、同じ会社の営業に近い立場の人間で

キャリアは私の2コ上。

仕事が上手くいった時は、自分の手柄にして

仕事が上手くいかない時は、他人のせいにするようなやつ。

典型的な嫌われ者である。

こいつと仕事をするときは、心の平静を保つ事に

配慮しなければならなかった。

つまり、自分がキレないように注意していたのだが・・・。

そんなある日、こいつとの仕事で何かのミスがあって

クライアントに事情を説明することに・・・。

すると、こいつ

「うちのスタッフが勝手にやったことです」

いやいや、違うし。

けれど、クライアントの前で反論もできないので

「スミマセン」と私。

とにかくこいつは自分の保身のためだけに

しゃべり続けた。

この流れで言ってしまった。

「お前、殺すぞ」って。

この一件は、こいつが総務部にチクったおかげで

ちょっとした事件になり

私はかなりのペナルティを負うはめになった。

こいつに謝罪もした。

当時の上司は「殺すぞ、はまずいぞ、殺意があるからな」と言ったけど

殺意を込めたのだから、当たり前だ。

私は相手に最高の恐怖を与えるために

いちばん殺傷力のある言葉をチョイスしたつもりだ。

(事実、ほんとに殺されると思ったらしい)

でも近年は

SNS界隈で猛威を振るった「死ねばいいのに」が

いちばん怖いと思う。

「死ねばいいのに」は呪詛だ。

どうしても死んで、という冷たさがある。

自分では殺らないけど、という狡さがある。

どことなく無責任な感じがするところが、また怖い。

「殺すぞ」は脅迫になるけど、「死ねばいいのに」は

脅迫にならない、というロジックに守られながら

(実はそうでもないらしいのだが)

周到に用意された言葉だ。

こいつに比べれば「殺すぞ」なんて可愛いものだ。

とにかく、言葉が殺傷力を持っているのは事実。

誰かと口論になって

売り言葉に買い言葉があって

より相手を傷つけようとするなら

「お前、死ねばいいのに」を

できるだけ無表情で言えば最強(最恐)だと思う。

うん、20年前のあの日に戻れたら、そうしよう。

いまは・・・言う方にも、言われる方にもなりたくない。

売り言葉に買い言葉で思い出した。

些細な事で同僚と口喧嘩になったとき

相手に「クズ野郎」と言われた事がある。

私は「カス野郎」と応戦した。

・・・「クズ」と「カス」ではどっちの殺傷力が高いだろう。

というか、子どもの「チ◯コ」と「ウ◯コ」と同じだ。

なんとも低レベルだ。


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