街角のコミュニケーション

世の中コミュニケーションだらけ。

プレゼンの振る舞い

私は人とのコミュニケーションが苦手だ。だからこそ、 苦手は苦手なりに、 どんな時でも円滑なコミュニケーションがとれるように心掛けてい る。それは、下手なコミュニケーションをとれば、 必ず自分に跳ね返ってくることを、身をもって学んだからだ。 要は自分のためである。会話でも、態度でも、 相手によほどの欠点がない限りは、相手を慮り、 相手と気持よく接することが大切だと思っている。

 

商談においても同様である。 私はクライアントになって相手の話しを聞く立場になることもあれ ば、スタッフとして話す立場になることもある。言い換えれば、 何らかのビジネスプランを提案される側か、提案する側か。 多少なりとも双方の立場が分かるので、どちらの立場に立っても、 それぞれの自分を思い浮かべ、それぞれの自分に投影しながら、 自分が痛い目にあったり、 失敗したりがないように対処することを身につけた。

 

私が提案される側になったとき、私が期待しているのは、 相手にベストのプレゼンテーションをしてほしい、 という一言に尽きる。あなたに緊張して欲しくないし、 あなたが気持よく、あなたのプランを説明してくれれば、 それでいいのだ。そのために私が実践していることは「ワタシハ アナタノハナシヲ チャント キイテマスヨ」というポーズをとることである。 具体的には相手が話しているとき「たまに頷く」そして「 たまに目を合わせる」。それだけである。 そこに余計な感情は要らない。この動作をするだけでいい。

 

提案されるクライアント側には、やたら偉そうに振る舞う奴や、 全く無反応な奴がいるけど、これは逆効果である。 相手に緊張と萎縮を与えかねない。 そうなるとプレゼンテーターは軽いパニックをおこし、 肝心のプレゼンがヘタクソになる。 聞くに堪えないプレゼンになることだってある。これでは、 せっかく用意された時間がもったいない。相手だって、 商談となれば、それなりの準備はしてくるはず。 こちらの振る舞いしだいで、良い商談にも悪い商談にもなり得る、 ということだ。「怖がらなくていいですよぉ〜、さぁ、 思う存分に話してください」。実に寛容な心持ちだ。

 

つい先日、私は過去最悪のプレゼンを経験した。それは、 残念なことに我々が提案する側であった。とあるクライアントに、 新規サービスのプロモーション戦略を提案したときのこと。 かなり大きな仕事、しかもコンペ案件ということもあって、 クライアントも我々も、ピリピリとしていた。クライアントは10 人、こちらは7人のプレゼン。プレゼンテーターは、 営業部の部長クラスだったのだが、これがひどかった。 殺伐とした空気のなかで、彼は自身を見失い、 極度の緊張のあまり、身体も声も震わせていた。彼のプレゼンは、 同僚の私でさえ何を言っているのかまったく理解できなかった。 口角に白い唾を溜めた痙攣状態に近いその様子は、 オカルト映画さながら、狐狸か悪魔に取り憑かれたように見えた。

 

ちなみに、私がプレゼンテーターだったら、 何人かいるクライアントのメンバーの中で、間違いなく、 いちばん頷いてくれる人か、 いちばん目の合う人に向かって話している。 話しやすい人を意地でも見つけ出す。 承認欲求がそうさせるのだろうが、それで不思議と落ち着くのだ。 先日の最悪のプレゼンの席にだって、 そんなクライアントはいたのに・・・。

 

もちろん、商談やプレゼンは話し方ではなく、 内容がいちばん大切であることは言うまでもない。 提案の内容によって、態度が豹変する人を、私は何人も見てきた。 天使から悪魔になる人もいれば、その逆もまた然りである。

「テレワーク・デイズ2019」終了

「テレワーク・デイズ2019」における、この会社のトライアル的な取り組みが先週の金曜日に終了した。2週間のトライアル期間中、私は3日の在宅勤務を体験した。最初はサボれるかな、なんて考えたけど、真面目にやってみるとなかなか良いではないか。大嫌いな上司や同僚と顔を合わせることもないし、下卑た笑い声を聞かされることもない。寝ぐせの髪のまま、Tシャツ、短パンスタイルで、煙草を吸いながら、自分のペースで作業ができる。案外、仕事がはかどるのだ。「こんなにだらしなくない」とフリーランスの方に叱られそうだが、ちょっとフリーランスの気分を味わえた気がした。性善説で成立する取り組みだとは思うけど、社員一人ひとりが己の裁量で、働き方を選べるなんて、実に成熟した会社っぽい。さあ、トライアルが終われば来週からは実用である。在宅勤務を行う場合、前日の正午までに電子書類で申請をあげ、上司の承認を得るという運用ルールがある。この書類が若干面倒な書式ではあるが、これは受入れることにしよう・・・。そして週が明けると、一通の同胞メールが届いていた。在宅勤務の運用に関するものだ。文面にはこうある。「在宅勤務については、その必要性が認められ、業務上必要と上長が承認した場合のみ許可。電子の申請の前に、その都度○○部長に相談が必要です」。こうもある。「在宅勤務にあたっては、メールでの一時間に一回の業務報告を原則とする」。あぁ、一瞬でもこの会社を信じた自分を呪いたい。「相談」ってなんだよ。「一時間に一回の業務報告」ってなんだよ。結局、この会社は在宅勤務なんてさせる気はさらさらないのだ。社員を信用していないし、管理する自信もないのだ。そのために運用をできるだけ煩雑にして申請をしづらくする。見え見えのやり口。成熟どころかガキである、働き方改革なんて、できっこないよ、この会社には。世の中には、変わるものと、変わらないものがある。この歳になると、変わらないものに触れたりすると無性にやさしい気持になれるのだけれど、変わらないこの会社の愚かさだけは、私をとことん萎えさせて、深淵のダークサイドに誘うのだ。

「テレワーク・デイズ2019」はじまる

今日7月24日は来年の東京オリンピックパラリンピックの開会式のちょうど一年前にあたる日だ。この日を目指して、社会のさまざまな場面でテスト(実験)が行われている。首都高速が通行規制されたり、移動式の交番が繰り出されたり。交通渋滞の緩和も市民の安全確保も、対策はこういうイベントがないと進化しないのかな、と思う。私たちサラリーマンもまた、この実験の対象となっている。「テレワーク・デイズ2019」という。東京オリンピックパラリンピックの会期中の交通混雑の緩和と働き方改革の推進を目的に国を挙げて取り組まれている。要は、電車やマイカーを利用して出社するのやめようじゃないか。という話である。じゃあ、会社の近くに住んでいる社員は、徒歩や自転車で出社すればいいんでしょ。とツッコミたくもなるが、そうはいかない。なぜなら、「働き方改革」という大義名分がくっついてるからである。例外は許されない。普段、電車通勤している社員も、徒歩で通勤している社員も「テレワーク・デイズ」に参加しなければならないのだ。よって、本日の弊社は全社員が在宅勤務かシェアオフィス勤務が義務付けられている。雨が降ろうが雪が降ろうがジテツーを貫いている私もまた本日は在宅勤務である。自宅のWi-Fiを利用して、パソコンをリモートで会社のネットワークにログインしていれば出社扱いとなる。そして業務が終了すれば、ログアウトして、メールで管理者に業務終了の旨を報告するだけである。これをこの2週間で4回やる。自宅にいながら拘束されているって、不思議な感覚である。もちろん、普段でも仕事を持ち帰ることはある。けれど、それは私個人の裁量で行っているもので(本当はこれがいけないのかもしれないが)会社に拘束されるものではない。私のようなおじさんにはとても落ち着かない感覚である。自由なようで自由じゃない。自宅にいながら、監視されているような気がしてならない。「他のみんなはどうしてるんだろう」と思ってしまう。「ちゃんと仕事できてるのかな」。中には休日感覚のやつもいることだろう。私も正直、昨日までは、サボって高校野球でも観に行ってやろうか、などと考えていたのだが思いとどまることにした。こういうことに慣れていない会社だから、やるとなったら徹底的に管理するかもしれない。スマホGPSを使って社員の居場所を追跡するとか、もしくは抜き打ちで上司が電話をかけてくるとか・・・。そのとき電話口の後ろでコンバットマーチモンキーターンが炸裂していたら、それこそアウトである。まさかとは思うが、初回だし、様子見の意味でも今日は大人しく自宅でパソコンに向き合うことにした。会社の始業時刻である9時30分にパソコンを立ち上げ、会社のネットワークにログインする。メールを一通りチェックしレスポンスしているとスマホに着信があった。見慣れない電話番号である。「もしもし」恐るおそる電話に出ると上司だった。やってやがる!「どうですか、なにか不都合はありますか?」だって。なんだかねぇ。社員を仕事の質で評価できるような会社じゃないと、こういう働き方は無理なんだと思った。ペーパーレスを推奨しながらその稟議書を紙で周知しているような会社だ、どうせうまくいきっこないさ。そんなに社員を管理したければ、テレワークなんて止めちゃえばいいのに。せめて、希望制にするとか、監視に耐えながらこの働き方で生産性を高められると自負しているやつらだけにやらせてくんないかな。あぁ、余計ストレスたまるわ。

「10連休のゴールデンウィークは要らない」と思う理由について

ゴールデンウィークの10連休は必要か』そんな議論が起きているのは知っている。正直どうでもいいと思う。答えなんてあるわけがない。必要だと思う人には必要だろうし、必要ないと思う人には必要ないのだろう。どちらの人にも言えるのは、この国の政府が定めたことに従うしかない。ということだ。そういう意味では、議論すること自体がナンセンスな気もする。あくまでも個人としての意見を持っているか、どうかでしかない。ちなみに私の場合は、「必要ない」である。これは連休後の感想ではなく、政府が閣議で決定したときから「要らない」と思っていた。10連休を必要と感じる人って、特別な事情があれば別だが、仕事とお金に余裕がある人か、よほど時間の使い方が上手な人な気がする。悲しいかな、私はどちらにも当てはまらない。私の10連休は、ほぼ昼間から自宅でNET FLIX もしくはYou Tubeをつまみに酒精に溺れるものだった。寝落ちして、覚醒すればまた酒精を求めるという自堕落な日々を送っていた。お金もない。人ごみに出る気もない。読書もしない。自己研鑽に時間を費やすこともない。あるのはゴールデンウィーク前にカクヤスで大量購入した黒ホッピーと金宮の焼酎だけ。お世辞にも時間を上手に使ったとは言えない。一つ言っておくが、本来、私はこういう自堕落な暮らしが好きなのだ。10連休だって苦ではない。もっと休んで、堕ちてゆきたいくらいだ。・・・それにしてもだ、やっぱり10連休は必要ないと思っている。だって自堕落がつづけば、いつもの「日常」に戻れなくなりそうで怖いから。にわかに注目されている中高年のニート、引きこもり・・・。“そちら側”にはいつでも行けると自覚しているから。普段の私は、どうにかこうにか“そちら側”に行かないようにと、自分にブレーキをかけているだけだ。今回の10連休は、私を“そちら側”にかなり近づけた。あー、あぶない、あぶない。

「キャバリア」という犬の名前がどうしても出てこないひと。

先週の休日、娘(愛犬)を連れて近所を散歩していた。娘を連れていると、2回に1回は見知らぬ人に話しかけられる。もちろん、これらの人びとは娘に関心があって、娘を目がけて近づいてきて、話しかけてくる。第一声のほとんどは、娘の容姿をみて「かわいいですね」と、ほめてくれるものだ。満更でもない私は「ありがとうございます」となけなしの笑顔を振りしぼって応えている。そして、このやり取りの後に続くのは、たいていは娘の犬種についてである。「なんという犬種ですか」などと聞かれるのだ。うちの娘の正式な犬種名は『キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル』。知名度的には、中の下くらいだろうか。世間では「キャバリア」という略称で通っている。この犬種を知っている人なら、「キャバリアですね」とか「キャバちゃんですよね」というリアクションで接してくることが多い。その日もそんな雰囲気だった。学生らしき二人の若い女性が前から歩いてくる。二人の視線は20メートル前方から、すでにうちの娘にロック・オンしている。やがて二人は足を止め、うちの娘に向かって「かわいい」と言ってほめてくれた。「この子なんていう犬だろう?」片方の女性が、もう一人の女性に向かって聞いた。すると聞かれた女性は「うん、わかる、アレだよ、アレ・・・」。その名前を知っているようだが、なかなか口に出てこない。私が聞かれたわけではなかったので、しばらく静観することにした。というか、この女性に花を持たせてあげたいとも思った。友だちの前でちょっといいとこ見せられるのではないか。そんな老婆心も手伝っていた。「・・・んとね、アレ・・・」。脳の海馬を刺激して、懸命に記憶を呼び起こそうとしている。たった数秒のことだったが、やたらと長い時間に感じたのは私以上に、この女性だったろう。そろそろ助け舟を出そうかな、なんて思っていたその矢先、彼女はハッとした表情を浮かべると興奮気味にこう言い放った「そうだ、チャールズ!チャールズよ!!」。度肝を抜かれていた。うちの娘を飼って12年。この手のコミュニケーションはたくさんしてきたが「チャールズ」と言われたのは初めてだ。「チャールズ?」と連れの女性は明らかに怪訝そうである。するとチャールズ女性は、自信がなくなったのか、私の方に振り向くと同意を求めてきた。「・・・ですよね?」。私はとっさに「そうです」とこたえていた・・・。犬の名前なんて、覚えなくても生きていけるしね。それよりもこの場面では、彼女の面目を保ってあげたほうがよさそうだ。まあ、間違ったこたえではないし、今日のところは、これでいい。願わくは、彼女がこの先、どこかで「キャバリア」を思い出してくれれば、尚、それでいい。

ルールをつくって、自ら破るクソ上司

この職場には『ワーキング・レポート』なる管理職が部下の業務を把握するための勤怠システムがある。スタッフはそれぞれが担当するジョブの情報を決められたフォーマットに入力し、イントラを介して上司に報告する仕組みである。ワーキング・レポートは、週に一度の更新が義務づけられていて、それは、複数のジョブをこなすスタッフにとっては、その一つひとつに手を加えなければならない作業で、要はメンドクサイのだ。私自身はメンドクサイと感じながらも業務管理という点では、必要なものだと認識している。それに、こいつのおかげで、大嫌いな上司と、いちいち面と向かって話しをしなくて済む。先日、このワーキング・レポートの運用が一部変更になった。管理者の上司からスタッフへの一斉メール。内容はこうだ。レポートの更新期日が、毎週木曜日から水曜日に変更になること。木曜日、金曜日に管理者が確認し、月曜日にフィードバック(コメント)がレポート上にあがること。フィードバックを反映してまた水曜日に更新すること。その繰り返しで運用すること。はいはい、分かりましたよ。そこに異議を唱えるつもりはない。それがルールなら、そのルールに従えばよい。私は、この手の“やらなきゃいけないこと”については、条件反射のように算段をたてるようにしている「月曜日にチェック、火曜日から水曜日のからだの空いている時間に更新する、木曜、金曜はフリー」。こんなメンドクサイ義務的な作業は、機械的に習慣化すればいいのだ。私に限らず、多くのスタッフも同じだと思う。ルール変更が適用されて初めての水曜日、私はワーキング・レポートを更新し、イントラに格納した。これで、来週の月曜日まではこの義務的作業からは解放されるはずだった。明けて木曜日の夕方、上司からまた一斉メールがとんできた。“ワーキング・レポートの確認が早く済んだので各自コメントをチェックしておいてください”だって。リズム狂うんだよね、こいつ。テメーの都合でルールを破るクソ上司。たちが悪いのは、スタッフにとって良かれと思ってやっているところだ。クソ上司のドヤ顔が目に浮かぶ。現場が軽いノイローゼになることを、想像できないものだろうか・・・。「アホか」。私はそう呟きながら、そのメールを速攻でごみ箱に捨てた。もちろん、週明けの月曜日までコメントなんて見るつもりもない。

既視感あるね、は悪魔の言葉

「この企画、既視感があるよね」。私たちの世界では打合せの時など、頻繁に使われる言葉である。“デジャブ”という意味もあるが、この場合は、過去に似たようなものを見たことがあるという意味で、転じて「真似をしている」なんて、否定的に使われることが多い。クライアントをはじめ、実にさまざまな立場の人がこれ見よがしに口にしている。私はこれを聞く度にイラッとする。「既視感のなにが悪い」と思うのだ。だいたいこの世に存在する多くのものは、既存の何かを模倣したものだと言っていいだろう。既製品をヒントにしながら生まれてきたものだ。見たことがある、という感覚は、当たり前なのである。確かに度を超えて模倣されているものは、“パクり”と叩かれてもしょうがないけれど、“既視感”で語られているものについては、概ね問題ないと私は思っている。見たことのない駄作なら、見たことのある良作のほうがいいに決まっている。「既視感あるよね」は、ネガティブチェックにもなってない、そいつがただ何となく言ってみたいだけの言葉なのだ。議論を発展させるどころか、言われた人びとのモチベーションを一瞬で萎えさせる悪魔の言葉なのだ。

春闘と後輩

春闘の季節です。我が社も例年どおり突入し、例年どおり妥結した模様。社員である以上、私も一応組合員ということになるのだが、組合の会社への要求や、妥結した内容にとくに興味も関心もなく、何かが改善されたという実感もなく、「もう、そんな季節なんだなぁ」と俳句の季語くらいの思い入れしかない。ただ、労使の交渉期間中、この会社もいっちょまえにスト(時間外労働拒否=残業拒否)なんかやるもんだから、仕事が立て込んでいたりするとジャマでしかない。ストは2、3日続くのだが、18時の終業のチャイムを合図に、管理職の連中が「早く帰れ」と組合員を追い立てる。そんな、今年のストのさ中にこんなコミュニケーションがあった。それはスト初日のこと、終業のチャイムが鳴って、私は帰り支度をはじめていた。すると、私より一回り以上も歳下の後輩くんが話しかけてきた。「ホント、参っちゃいますよね、このスト」と、残業ができない後輩くんは明らかに不服そうである。「あぁ、ホント、仕事すすまないな」と、私。すると後輩くんが畳み掛けてきた。「何で、こんなクソな要求のために、おれたちを巻き込むんすかね」。ズケズケとものを言うタイプだ。おまけに声もでかい。「どういう内容?」組合の要求なんてまったく知らない私は、後輩くんにたずねてみた。すると「知らないんすか?もう、ダサいんすよ、シニアスタッフ(再雇用者)の成果手当○%アップですって、俺たちにカンケーなくないすか?」。私がこの会話を紡ぐことはなかった。なぜなら、その会話のすぐそばに当のシニアスタッフがいたからである。私はそのシニアスタッフのばつの悪そうな顔を見逃さなかった。あー、後輩よ・・・。私がその場で後輩くんを正すことはない。余計な軋轢を生みたくないから。ただただ、呆れていた。「シニアスタッフのことなんて、自分にはカンケーない」という思考に対してではない。はっきり言って、私にだってカンケーないし。私が呆れたのは、どうしてそれを、この場で言わなければいけないのか、ということである。状況判断ができていないことに対してである。後輩くんがこのシニアスタッフを極端に嫌っていて、聞こえよがしに皮肉として言ったのなら、まあ、分かる。けど、そうでもなさそうだ。早い話しが、ただの無神経なのだ。クソつまらない話題を私にふってきたことは、百歩譲ろう。ただ、そういう状況判断のミスは、不幸なトラブルの原因になるだけだ。私も巻き込まれるかもしれない。

それだけはご免だ。私はその数時間後に後輩くんにメールをした「あのタイミングで、あの発言はよろしくない」と。するとすぐに返信があり「アドバイスありがとうございます。すぐに自分勝手な考え方を改めます」とあった。だから違うって、違うのだよ、後輩くん。因に、後から知ったことだが、「シニアスタッフの成果手当のアップ」は、組合が会社に要求していた何項目かのひとつに過ぎない。要求にはちゃんと一般社員の報酬についても盛り込まれていた。そりゃあ、そうだよな、後輩くん。